CWコミュニティ構想
第6章 医療の実情
医師の実体
日本の保健医療が窮地に立たされています。
なぜこんなにも医療費が必要なのか。
それは、国民医療教育を行なっていないからです。
子供が熱を出せば、「どうしてだろう、何が悪かったのだろう。あれなのか?これなのか?それともなんなのだろう?何があったんだろう?……」
いろいろ考え、考えられるだけのことを考えた上で、医師のところへ行く。
医師には、「何が原因なのでしょうか?どういう可能性があるのでしょうか?」と聞き、自分の考えたことをすべて話し、原因を見つけるのに協力してもらうことです。
熱を下げてもらうことは、何の治療にも、何の原因究明にもなっていないのですから。
子供の熱を下げることだけしかしない医者は、失格です。
次に子供が熱を出した時に、自分でできる方法を知るためにも、原因を知ることは大切であり、その追及の仕方を知ることも大切なのです。
そのためにも、医師にしっかりとそのことをいい、教えてもらうことが大切なのです。
「そんなことしてくれません!」……
多分、それが現実なのでしょう。
なぜ、医者はこちらの質問に答えてくれないのでしょうか?
それは、「彼らにもわからない」からです。
「そんな一人ひとりの、熱を出している原因を調べたり、検査したりしていられない!」
「一人ひとり違う原因なんかわかるわけがない!」
「後がつかえているからそんなことできない!」
これが真実なのでしょう。
「当てずっぽうでいいのなら」・「大体でいいのなら」教えてあげます。
これが、彼らの本当の答えなのでしょう。
熱の原因も、痛みの原因も、腫れている原因も、レントゲンを使っても、MRIを使っても、血液検査をしても、わからないものがたくさんあることを、多くの人は知っています。
国民が訴えるさまざまな症状や異常、違和感にたいして、答えられるのは半分もありません。半分の半分もありません。その半分があるかどうか。これが真実です。
私がいうのではありません。
あなた自身の経験、知人の話、新聞やテレビの情報。
それらをまとめると、そんな結果が出てくるのではありませんか?
「目を閉じないで、真実を見つめてください!」
今の日本の医療は、これが現実なのです。
医者が自分たちの地位や生活を守るために、政治団体を作り、本当の医療の発展のために努力するのではなく、少しでも自分たちにとって有利なように、楽なようにやってきた結果です。
40~50年も続けてくれば、どんな正法も腐ってきます。
もうすでに腐っています。
医療不信がいわれて40年以上が経っています。
多分医者たちが、そんな政治活動を、やり出した時期と一致していると思います。
その間、何も変わっていません。
ただ医療不信が当たり前になっただけです。
「我が子が熱を出しても病院に行かない」と、いう人が増えています。
なぜなら……そうです!熱を下げるだけで、原因もわからず、注射一本で終わらせる。
そんなやり方。
その注射で事故が起こらないとはいえない。
病院で診てもらうことが危険なのです。
それは病院の設備、機器もありますが、それ以上に医師たちの人間性に不信を持っているというのです。
それはまったく同感、その通りです。
私の親戚には、大きな病院を経営し、家族のほとんどが医師という者もいます。
他にも何人かの医師がいます。
そして、私はこの25年間、医師・歯科医師を対象に、講演やセミナーを行なってきました。
北海道から九州まで、各地で行いました。
平均的な40才~80才くらいの、そういった人たちのことをよーく知っています。
だから私もいえることがあります。
彼らは、普通の一般の人と何も変わりはありません。
決して、人の病気が専門でもありません。
医学知識が普通の人よりも、少しあるという程度です。
ほんの一部―人間の身体のほんの一部について専門といえばそうかもしれません。
とはいっても、個人々々の身体の一部が専門というと、そうではありません。
「車が専門です」という人が、実はタイヤの修理屋さんだったら、皆さんはその人のことを、やはり「車の専門家」と認めますか。
医師は、ほとんど皆がこのパターンです。
求める側は、身体全体のことで求めているのに、相手側は、実は一部やさん」です。
こちらが求めることに、どうして答えられるでしょう。
我が子の熱の原因をどうしてそんな人たちがわかるでしょう。
それだけではありません。
まったく同じことを、彼らに云いました。
彼らは、「まったく同感です」と、相槌を打ちました。
もし、あなたが年頃になった子供のことで相談をするとします。
その答えが、「一般的には」・「その年頃になると」・「普通」そういう行動にでる場合が多いんですよ!
「でも、うちの子供は素直で何もわかっていないんです!」
「普通、親御さんは皆そうなんですよ!子供のことはわかっていないんでよ。でもそんなに心配することはないです。結局は戻ってきますよ。普通一般的には!」
夫の浮気のことで相談したら……
「男の35才は、普通そうなんですよ」
「子供も2人いるし、上の子が受験を控えているというこんな時期に……何もそんなことしなくても……」
「男は普通、時期とか、子供のことなんかを考えて、浮気したりはしないんですよ!」
「でも、その内帰って来るでしょう!心配することないですよ!」
そんな答え方しかできない人に、あなたは相談しますか。
少なくとも次に、また、相談したいという気になりますか?
医師や教師の答えは、これとまったく同じようなものです。
目の前にいる自分のことを聞いているのに、「データー上では……」・「一般的には……」・「普通は……」・「よくわかりません」
そんな答え方がありますか!
親身に、その人のことを思い考えているのなら、そんな答え方などするはずはありません。
その相談者が、医師本人の奥さんだったり、相談の内容の子が、自分の子だったり、
母親や姉妹、友人が相談者であれば、そんな答え方をするでしょうか。
そんな答え方をすれば、「もっと、真面目に考えてよ!」といわれてしまうでしょう。
2・3度同じことがあれば、次には決して相手などしないでしょう。
そんな人が現実には、「先生!先生!」と呼ばれ、そんな顔をしているのです。
習ってきたものを、頭にたくさん詰め込んだだけの、自分で考えて何も対処することのできない、そんな人。
勿論、皆が皆そうではないでしょう。
もっとも、そんなこと自分で自覚している人も少ないと思いますが……
え!ちょっと待ってください。ここまで云って気づいたことがあります。
彼等、彼女等が、元々がそうだったわけではないと思うのです。
では、いつからそんな風な人間になったのでしょうか?
それは、考えればわかることです。
自分の考えをもたないようにしなければならないという状況や、立場に立った時からです。
特定の、国の資格を取るときには、「そんな人物像」を、国が求めているからであり、それに応えたからに他なりません。
今、イラク戦争が始まっています。
彼ら軍隊が自分の考えを主張したら、軍隊が成り立ちません。
そんな立場、そんな状況というものがあります。
誰かがやらなければならない。
そうなんです!
彼らは自分から進んでそんな職業を選んだのです。
「自分を持たないように、皆と同じことを言い、考え、行動する」
そんな職業、そんな人なのです。
そんな人を夫に、妻に、したのはあなたです。
しかし、そんな人達の子供は、「自己センサー」が人一倍働くのです。
なぜなら、自分に悪影響を与えるものが、そばにあるからです。
それに対して、敏感になっていきます。
子供の時から、両親をよーく見ています。
そして、子供は批判するようになります。
的確な、元からの信号をキャッチした上での批判なのです。
どんな親も、それには抵抗できません。
なぜなら、間違いなく的を付いているからです。
自分では気づかなかった内に、そんな人間になっていたのですから、そんな両親から生まれた子供は、一体誰にぶつければいいのでしょう。
そんな叫びなのです。子供の言動は……
彼らは、自分の望んでいるものを手に入れるためには、「自分の信念や理想は、放棄してもいい」と考えたのでしょうか。
勿論いろいろな人がいます。
「放棄してでも資格に価値を見出した人」
「放棄してでも、今の現実を見れば、誰かがやらなければ!」
の思いで選んだ人。
「放棄はしていない、資格・技術・情報が欲しいだけ」
「放棄はしていない、資格・技術・情報を手に入れた後、その理想を追求していく」
それぞれの人を、私は知っています。
しかし、「理想」をもっている人は、そんな中にいても、他の人(資格・名声・金を目的にしている人)とはどうしても違っているようです。
どうしても、はみ出すそうです。
途中で、あるいはすべてを手に入れて、「理想郷」を求め出す人もいます。
そんな人は、やはり他の人と違って、浮いて見えます。
何にもまして、現実の世界にいる人たちです。
現実から逃避しているように見えるのでしょう。
それだけ現実は厳しいのでしょう。
しかし、「だからこそ、理想郷を再び求め出した」という人もいるのです。
にもかかわらず、余りの現実(高い資格を得ることで、社会的に、かなり有利)を見せられることで、心がゆらいだこともあり、気がつかない間に「理想郷」を求める気持ちが一歩後退していることに気づいていない場合も多いのです。
社会的にも、一般の人よりも有利な立場にあるのなら、それを生かして、積極的に「理想郷」作りをすればいいのに、と思える人も多くいます。
勿論、中には「自分の理想郷に向かって,どんな情況があっても邁進している」という人もいるでしょう。現に、実行している人もいます。
「人は志半ばで終わる」、ものかも知れませんが、もっと目標を高く設定し、一人ではなく、複数、多数でやらなければ、なかなか実現するものではないと思います。
実は現場の彼ら自身が被害者なのです。
「宇宙ロケットを作る」といって参加したのに、5年経っても、10年経っても、板金、溶接ばかりさせられる。
家族や知人には、「宇宙ロケットを作っている」と云っている。
それなのに現実は……
あれほど情熱をもって関わったのに……
段々と自信を無くし、目的を無くし、その内「何のためにやっているのか……何のためにいきているのか……何ために生まれてきたのか……」
すっかり落ち込んでしまいます。
これが現実です。
医師にも責任がない、としたら一体誰に責任があるというのでしょう。
私は「医師や歯科医師、看護婦、助産婦等の医療関係者を相手にしていては、私の伝えたいことは、伝わっていかない」と感じました。
(国家資格、医療制度によって守られているからです)
それよりも、美容師や理容師のほうが「一人のお客さんを大切にしなければならない」という立場が強く、さらに競争も厳しく、どこからも守られていません。
人柄や技術がすべてです。
(医療者は保険制度により、どこに行ってもおなじ医療が受けられる、という保証の中で、保険医療さえしていれば、人はやってくるという状況にあります。もちろん、人柄や技術で左右される部分もありますが、患者の方は、保険を扱っているかどうかが大きな問題です。しかし、本当に悪くなり、どうにかして治さなければならない、というような情況になれば、患者側も保険云々とは云っていられません。
しかし、そんな時になれば、一体どこの病院が、医院がよいのかが、まったくわからないのです。
つまり、本当に技術がよいのかどうかが分からないのです。
保険医療を手に入れた替わりに、その人の治療に対応できる技術も育たなかった、という事なのでしょうか。
もっとも医師は、治療が本職でなく、薬の処方がメイン、と思っている人が多いのが事実です。
医師は、手技を使ったり、技があるわけではありません)
そんな人たち(一人ひとりが大切という状況にある)であれば、私の伝えようとしている「その人のための……」が理解できると思うのです。
病院、治療院では治る、治らないに関係なく料金を取ります。
それも大金です。
病院、治療院以外で、そんな仕事が他にあるでしょうか。
納得いかなければ、次は同じところへはいかないでしょう。
納得させられないことをやっていて、営業が成り立つのは病院ぐらいなものです。
治療院でさえそれは無理です。
美容院や理容院、その他の営業で、そんなことをしていれば、そのうち閉店に追い込まれてしまいます。
それだけに、一人ひとりを大切にします。
正に、それなのです。
私の治療院では、「治らなければ、治療費を払う必要はありません」・「納得した分だけ払ってください」と案内しています。
「治せなくても・治らなくても料金が同じ」、どう考えても、受ける側にしてみれば、合点がいきません。
そんなやり方は、前近代的であるばかりでなく、本来の「その人のための治療」から逸脱しています。
「良くならなければ、治療費は払う必要がない」、のが本当のはずです。
「治っても、治らなくても、治療費が取れる」、そこにつけ込む医師や治療家がたくさんいるのも事実です。
そんなことがまかり通っています。
増々患者さんは、一体どこへいけば安心して治療が受けられるのか不安になっています。
それは、医師・治療者、その他の医療関係者とて同じはずです。
「治せなければ治療費はいらない」、そんな気持ちで取り組んでこそ、技術も理論も人間性も向上するというものです。
しかし、これからだって、この分野は前近代的なやり方で通用させていくのでしょう。
そんなことで、日本の医療が救われるでしょうか。
保険医療そのものが救われるでしょうか。
保険医療そのものが窮地にたたされているというのに……
一向にかわる気配はありません!
はこびる「怠慢」
何故!なぜ!それはなぜでしょう!
それは「怠慢」です。
政治の、教育の、「怠慢」です。
皆さんも知っているでしょう、あのK-1のボブ・サップ選手。
昨年は、日本デビューし、日本中でブームを起しました。
そして、強かったのです。
しかし、その後、余りにも人気が出て、CMに出演したり、テレビに引っぱりだこになりました。
その結果、練習がおろそかになり、体重も180㎏から150㎏まで落ちました。
あの巨体が売り物だったのに、彼はすっかりこじんまり、スマートになりました。
迫力も欠け、威圧感もなくなりました。
そして、2003年3月30日、100秒そこそこで、病院送りになったことは、日本中の人が見ていました。
何故、なぜ……
誰もが知っています。
戦前でさえ、相手のミルコップが勝つと、断言する人の方が多かったのです。
そして、その通りになりました。
でも誰も、彼には同情しないでしょう。
すっかりハングリーをなくしたボブ・サップ、それに引き換え、ミルコップは、死に物狂いでトレーニングをしてきたのです。
その彼に敗れたのですから、相手を憎む人などいないでしょう。
ボブは、トレーニングの「怠慢」だったのです。
「怠慢」は、人をだめにします。
政治家や教育者・医師はこれに当たるのでしょう。
豊かになると、皆が「怠慢」になります。
にもかかわらず、「怠慢」ではいけない分野がたくさんあります。
皆が豊かになると、人に対して批評も批判もしなくなります。
そうしている間に、取り残されていくのです。
誰も彼もが、です。
「怠慢」は、無気力、無関心、無感動につながっていきます。
自分自身を考えてみてください。
50才前後の人は、まだ少年の頃は、身近に畑や田んぼがあり、アスファルトや護岸のしてない小川や川で、小魚を採ったり、泳いだりして遊ぶチャンスもあったでしょう。
山に入って、カブト虫やクワガタを捕ったり、竹を切って貯金箱にしたりもしたでしょう。
土のグラウンドで、級友たちと走り回ったり、ゲームをしたり、家へ帰ればメンコやビー球で遊んだりもしたでしょう。
仲間と一緒に、大人の自転車や子供の自転車が入り混じって、近所の通りをレース場にして競争したりもしたでしょう。
また、鉄くずや銅線・アカ・自転車のベルのキャップを無断拝借して売りに行き、小遣い稼ぎをしたこともあるでしょう。
映画館の入り口に立ち、大人が来るのを待ち、その人の子供のような顔をして一緒に入り、ちゃっかり只見したこともあるでしょう。
川の土手でスズメをパチンコで落とそうと、やっている間に、土手下の家の親父に「こら!誰がガラスを割ったんや-」と、怒鳴られ逃げ隠れしたこともあるでしょう。
夏の盆踊りのフォークダンスで、憧れている年上のお姉さんと、手をつなげることの喜びに浸ったこともあるでしょう。
一人、遠出をし、迷子になっておまわりさんのお世話になったこともあるでしょう。
運動会や遠足、写生会で級友たちと競ったり、ふざけたり、一緒に怒鳴られたり、悪さをして逃げたり、女生徒をからかったり、時には真面目に机に向かったり、そんな少年時代だったでしょう。
そんな少年時代をすごしてきた者にとって、友人の動静や消息は気になるものです。
仲間の多い者にとっては、それぞれ皆がどうなったのか、どうしているのか、大きな関心事です。
誰がどの大学に入ったのか、どんな彼女と付き合っているのか、どこへ就職したのか、初体験を済ませたのか。
え!子供ができた!本当に!ところで結婚しているのか、いないのか。
誰が結婚したのか、誰が子供ができたのか。
え!交通事故で死んだ!仲間に連絡しなければ。通夜に出なければ。
父親がガンだって……、両親が離婚したんだって、家が破産して、皆どこかへいなくなったらしい。
2人目の子供ができたらしい。何かお祝いを贈らなければ。
仕事がうまくいって、会社が大きくなったらしい。
再婚したらしいよ。
また、仕事を変えたんだって。
上の子供が結婚するんだって。それじゃ直ぐにおじいちゃん、おばあちゃんになってしまうね。
自分たちもその内、すぐにおじいちゃんになるよ。
え!ガンだって、それで具合はどうなの?
え!あいつも死んだって、まだ若いのに、生命保険、入っていたのかなあ。
限りなく関心ごとがあります。
そんな人は、ことあるごとに「自分も頑張らなければ!」
「よし!やるぞー!」の、気力を充実させます。
子供の頃は、家でも、学校でも、そんなに物に恵まれては育ってきていません。
日本中が物不足であり、豊かではありませんでした。
贅沢をいっても、それに応えてくれるものもありませんでした。
皆が質素で、何もかも満たされない状態ではありました。
ただ、あるのは、家族の中の小さな喜びや級友たちとの交流だけでした。
それでも、充実していたのでしょう。
50才を過ぎた今も、そんなことがベースになって、人に関心を持ち、社会にも、外国で起こるさまざまなことに関心をもつこともできるし、些細なことでも感動してしまう感性も育ったし、いろいろなことに刺激を受け、「よし!やるぞー!」の気力も高まることはあっても、下がることがない。そんな、50才前後の人は、多いのではないかと思います。
しかし、今の30代以下の人たちは、生まれた時から物に恵まれ、それがスタートとなり、不足することに不安を感じ、いつも満たされていないと落ち着かない。
それでいて友人らしい友人もいない。
喜びを分かちあう相手がいない。
わがまま同士の彼女(彼)との付き合いも、互いに好き勝手を相手に押し付けるだけで、自分に都合のいい付き合い方しかできない。
そんな二人だから、相手を信頼するということなどもなく、そのうち別れてしまう。
それと同じパターンで結婚する。
結婚前の付き合いと違い、「家庭を持つ」ことが前程なのだから、当然に子供も生まれる。
しかし、そんな二人だから、子供との付き合いも地に足がついていない。
躾もうまくいくはずもなく、物が溢れている中で育ち、友だち意識も育てられない。
隣近所や、小・中学校で、それぞれ自分のわがままだけを出し合い、自分の都合だけで仲間はずれにしたり、仲間を振り回したりという中で、充分に耐えて育ってくれればいいが……
そんな不安を前程にした子育て。
仕事も、自分のやりたいことができている訳でもないし、それ以前に自分が何をやりたいのかさえわからず、惰性で就職し仕事をしている。
そんな自分だから、あれもこれもスムーズにいかず、景気も悪くなり、ますます待遇が悪くなり、「そのうち会社も辞めるか」あるいは「リストラされるかも」、そんな不安定な毎日。
妻も、そんな夫、子供を見ているうちに、「なんであんな人と一緒になったのか……失敗したのではないか……と考えるようになり、そのうち子供も荒れてくると、もう後は逃げの一手……とはいっても、出ていけるわけでもなく、ようやくそのころに、「もう遅かった」と気づく。
家庭では、コミュニケーションもなく、笑い声もなく、夢も未来も期待できない。
「私の人生はこれでおしまいか」と、妻も諦め、夫はそんな中でも、なんとか外で気晴らしを考え、帰宅時間は遅く、子供と顔を合せないようにしている。
子供も、そんな父親の顔も見たくない。
お互い、みんな顔を合わせないようにしている……
そんな生活も2年、3年、4年……
ほとんど家庭は崩壊寸前、それでもまだ持ちこたえている。
崩壊した後は、行くあてもなく、身を寄せるところもない。
そんなことを考えれば、まだ崩壊していても家にいるほうがいい。
そんな考えでいる、夫婦、親子。
何がそうさせたのか……
コミュニケーションができないこと。
それが原因です。
「人とのコミュニケーション」がうまくできないのです。
それだけではありません、「自分とのコミュニケーション」もできていないのです。
「物」がなければ、友人、知人と話をしたり、つき合ったりするチャンスが大きくなります。
しかし、あまりにも「物」に恵まれ過ぎると、自分のそばに人はいらないのです。
物とつき合っていたいのですから……
人から自分の時間を邪魔されたくないのです。
そんな幼児が、小学生・中学生・高校生……になっていくのです。
そして、人とのつき合いの必要性など、まったくない青年が育つのです。
その間もずっとテレビ、TVゲーム、パソコンに釘付け。
人と付き合わない分、「自分」とつき合っているかというと、そうでもないのです。
そんなふうに育った人は、「自分」との付き合い方もわからず、「自分と会話する」ということがどういうことかも、まったくわからないのです。
だから「自問 自答」もなければ、「自分を追い込む」ということもないのです。
一旦落ち込こめば、はい上がってくる自信もない。
だから、落ち込まないように自分を守ることしかしないのです。
人に対しての批評、批判どころではないのです。
自分を守るだけで精いっぱいなのです。
人のことなど考えることもなく、兄弟・姉妹・両親のことを考えたりもしない。
そんな人は、クラスメートのことも・同僚のことも・会社のことも・もちろん世界中で何が起こったとしても、何の関係もなく、何の関心もないのです。
そうなっていくのです。
そんな環境に身をおけば、誰でもそうなっていくのです。
そんな人たちが、小学校に……中学校に……高校に……大学に……会社に、家庭にいるのです。
どうして、良い人間関係ができるでしょう。
どうして、信頼し合える仲間ができるでしょう。
どうして、愛し合える家庭が築けるでしょう。
そんな空間が、人々を包んでいるのです。
どうして、そんな空間と良いコミュニケーションができるでしょう。
そんな人間に、誰がしたのでしょう。
「怠慢」がそのすべてです。
「ちょっと手を抜いた」・「ちょっとらくしたかった」、ただそれだけだったのです。
それがいつのまにか長くなり、あっちもこっちもらくしたくなり、ついに「怠慢」ができあがるのです。
「誘惑」はいつも外にあるわけではありません。
自分の中にもあります。
少しの油断が大きくなり、取りかえしのつかないことになり、気付いたときにはすっかり「楽」の中にはまってしまっているのです。
「これぐらいはいいだろう」・「少しぐらいはいいだろう」は、よほど意志が強くなければ、するものではありません。
多くの人が、ついはまり込んでしまうのです。「これぐらいはいいだろう」にです。
それでなくても私たちの回りは、「物」に囲まれています。
欲しいものは、何でもあります。
手に入れようと思えば、いつでも入ります。
自分の欲しいものを手にいれるためには、大して努力しなくても済んでしまうのです。
そんな環境にいれば、大の大人でさえ「怠慢」になっていきます。
ましてや、子供や幼児であれば、完全にはまってしまいます。
そして、そんな幼児や子供が大人になっていったのです。
それが、2003年、現在の状態です。
頭も使わず、感情も動かさず、身体も働かさず、目だけが動き、耳だけが動いている人間になってしまっているのです。
日本中が、「怠慢」―無気力、無関心、無感動、になってしまっているのです。
「怠慢」になるともっとありがたくないことも起こります。
それは、「自己センサー」がキャッチする能力が、鈍くなってくることです。
「自分の元からの信号」さえ、確認できにくくなっていってしまうのです。
つまり、自分の「身体」さえわからなくなってしまうのです。
「自問 自答」の「自問」がなければ、「自答」も起こりません。
「発信」がなければ、「反射」も起きないのです。
「怠慢」の中で起こったこと。
それは自分の「理想」が作れなくなったことです。
「理想」をもたなくなっている
「足らない」ことがなくなると「求める」こともしなくなります。
確かに、足らなかったからこそ、求め、求めるからこそ「理想」が生まれたのでしょう。
でも求めるのは「物」ばかりではありません。
恋人や友人・理解者・師・そんなものもあります。
体力・気力・行動力・意志力・克己力・統率力等々もあります。
すがすがしい空気・身体に良い水・自然なみずみずしい食物・素晴らしい自然環境等々。
これらは夢物語なのでしょうか
実現できないものなのでしょうか。
否!そんなことはありません。
誰もが果たせることです。誰もが掴むことのできるものです。
夢ではないのです。「理想」なのです。
自分の中で、「これは素晴らしい」と、思えることをたくさん描くのです。
そして、どんどん転がすのです。
最初はなんでもいいです。
いろんなことに対して、何でもいいんです。
そうしているうちに、あれもこれもがつながってきて、形になっていくのです。
形になったものを、もう少し無駄な部分を削り、あっちから見ても、こっちから見ても、様になってくれば、それを「理想」と表現するのです。
そしてその「理想」を人に語るのです。
「人とのコミュニケーション」は、ここから始まるのです。
自分の「理想」を語り、「自分はそれを目指し、今努力している」
その一言が、人とのコミュニケーションの始まりなのです。
互いに「理想」を語り合うのです。
そうすることにより、人との距離も縮まり、親しみがでてき「何か彼(女)のために、自分は役にたたないだろうか」と、互いに考えるようになるのです。
そして、「何か一緒にできるのではないか」と、意気投合し、2人の関わり合いがスタートするのです。
「物」が、今のようにこんなに溢れていない頃は、そんな風にして仲間を作っていったのです。
それは、自分に「理想」があったからです。
「理想」を語りあわないもの同士は、何も起こりません。
「理想」を語り合うのは、それだけ相手を認め受け入れているからです。
相手を受け入れることさえ、「理想」を語り合うことでできるのです。
相手を認めることさえ、「理想」を語りあることでできるのです。
夫婦で親子で友人で、「理想」を語りあうのは、相手を認め受け入れたいという気持ちがあるからです。
次の時代を読むことはできる
私は、さまざまな人からいろいろな問題で相談を受けます。
また、エネルギー回復療法 「医美」では、毎日10~20人くらいの人が治療に来院します。
その時、相談者や患者さんが求めてこなければ、応えることも、治療することもしません。
それは、私が行なうのは、「相手が求める」からこそできるのであり、「求める」からこそ「その人から信号が出、元から還ってくる信号もキャッチできる」のです。
「求めない人には、わたしは何もできません」
お節介はないのです。
お節介はできないのです。
「元の信号をキャッチして行う」、だからそんなことが起こるのです。
求められなければ、「そこに存在している必要はない」のです。
治療や相談というものは、本来は、そういうものなのです。
求めない人に対して、何ができるというのでしょう。
「求める」というのは言葉ではありません。
どんな形であれ、「求める姿勢があれば」わかります。
そんな信号が出ているからです。
しかし、今は「求める」ということさえ分らないというのです。
足らなければ「求める」ということも起こりますが、「足らない」ということがない生活をしている人にとって、「求める」ということが、どんなことかが分らないのです。
「満たされている」のです。
決して幸せに「満たされてる」訳ではないのですが……
「満たされている」というスイッチが入ってしまっているのです。
それは、「物」が溢れているから……
「物」に囲まれているから……
それだけではありません。
私は、27・8年前から人前で講義を行ってきました。
その最初の頃(1976年頃)、私はこんな話をしました。
『今、コンピューターが、少しずつ出てきています。
今の30代の人達がコンピューターを使いこなすまでにはまだ時間がかかります。
しかし、今の小学生が使いこなすのには、そんなに時間はかかりません。
今までになかったまったく新しい世代、新人類の誕生です。
(世間では、まだそんないいかたをしていませんでした)
彼らが、10年・15年・20年して、30代になった頃、確実に社会の中は、別々の人類が共存することになります。
ものの価値観も、発想も、自分の命や人の命に対する考え方まで、まったく変わっていくでしょう。
そんな彼らと、私達は付き合っていかなければならないのです。
コンピューターは、感情も、思想も、生い立ちも、皆関係ないのです。ただ機械的に操作の結果が出てくるだけです。
そんなコンピューターと付き合っている子供達は、コンピューターに似てくるでしょう。
感情も無く、思想も無く、思いやりもない。そんな人間に育っていくでしょう。
そんな人が多くなり、さらに彼らより年下の子たちや、その後生まれてくる子達は、それ以上に、無気力、無関心、無感動な子に育っていくでしょう。
そして、国民の半分以上の、若い世代のほとんどが、そんな風な人達になってしまうでしょう。
これは、止めることのできない現実です。
そうなった時、自分達はどう彼らと付き合えばいいかを、今から考えて下さい。』
それから20年ぐらいが経った頃には、まったくその通りになっていました。
そして、それから4・5年がたった頃に、あの米国同時テロがありました。
それから、1年半が過ぎようとしています。
今、テレビや新聞に、「奇怪な事件や殺人事件」が多発していることを伝えています。
テレビや新聞では、評論家がさまざまに解説しています。
私も27・8年前にこのことを予測していました。
これから起こること、きっとそうなること・・・・・それは充分に予測できるものです。
私は、治療をする上での必要から、「人を知る」必要がありました。
そのことがキッカケで、全国各地において、さまざまな人を対象に、いろいろなテーマで講演やセミナーを行いました。
そのほとんどが、いろいろな問題で悩み苦しみ、もがいている人が対象でした。
障害の児を抱えている親や兄姉、いじめの問題で悩んでいる親や当人、学校の勉強のことで悩んでいる子。躾で悩んでいる親、進学・成績で悩んでいる子、家庭の問題で悩んでいる子、恋愛問題で悩んでいる子、就職の問題、SEXの悩み、結婚のこと、借金のこと、家族の死、離婚、自立、再婚のこと、年寄りのこと、老後のこと、人間関係のこと、その他いろいろな問題で行き詰まり、悩んでいる人が参加者です。
そんな、いろいろな悩みや問題解決のための糸口を、見つけようというのが講義の目的でした。
同じテーマで、5回から10回、それ以上行うこともありました。
私は、そんな講演やセミナーを5,000回以上行ないました。
そして、分ったことがいろいろありました。
ある人の悩みや問題は、すでに、他の人が経験しています。
その経験談を、たくさん聞くことは、大変参考になるのです。
しかし、そんな経験をしている人が、他にいないような場合は、何度も何度も繰り返しそのテーマを取り上げて話をしたり聞いたりしました。
そんなことを、いろいろな年代、いろいろな地域で行いました。
そんなことを長く続けていることで、わかったことがあります。
それは、これからの時代、どうなっていくのか、というようなことがわかってきたのです。
なぜなら、いろいろな分野で、いろいろな問題・悩みをもっている人だけを相手に、突き詰めて話していくことを繰り返していると、それが正に次の時代の予告になっているのです。
「あらゆる分野で、悩み苦しみ、もがいている人は、その分野の最先端の人なのです。
それぞれの分野、立場、状況の中で、悩みもがいていない人は、まだその時期がきていない人です。
すでに悩みもがいている人は、もう、突き当たった人なのです。そして、次の時代の幕を開けられる人達なのです」
そんな多くの人に関わっていた私は、確実に10年20年後はどうなるのかを、充分に予測することができました。
それが、私42・3才の頃のことです。
その頃の、たとえば小学生や中学生でも、悩み苦しんでいる子はチャンスが充分に残されていました。
しかし、何の疑問もなく、コンピューターを操作している子達。
その子達が心配でなりませんでした。
その子達は今、40才前後からそれよりも若い人たちです。
それ以後、新々人類という言葉も生まれました。
やはり、世間もそんな彼らのことを、異質ととらえていたのでしょう。
そして、さらに異質な人達は、今、30才前後以下の人達のことです。
しかし、20代、それ以下の人達を新々々人類、新々々々人類とはいわなくなりました。
背骨の曲がった魚
それは、1970年代の中ごろ、静岡県田子の浦で発見された、「背骨の曲がっている魚の事件」も同じような結末でした。
その発見は、瞬く間に日本中を駆け抜けました。
そして、1ヶ月もたたないうちに、全国の港々で、同じような魚が発見されました。
それから1ヶ月もたたない内に、食卓から魚は消えました。
「一体どれぐらい経てば、また、魚が食べられるようになるのだろう」と、誰しも思っていました。
そんなことが1年ぐらい続きました。
その間に、私が22・3才の頃、「鮮魚の運送をしている、全国一位の水産輸送会社の社長が、先祖の墓の前で、前途を悲観し焼身自殺した」と新聞に載りました。
社長は私より10才も上ではありませんでした。
まだ若い社長でした。
大型トラックが400台ぐらい、小型が同数ぐらい、トレーラーが3台あり、私はそのトレーラーの一台を運転していました。
人身事故をキッカケに23才の時に車から降りました。
その5年後のことでした。
そんなこともありましたが、いつの間にか食卓には魚が戻っていました。
2年も経てば、「背骨が曲がっている魚」のことなど誰も話題にしないし、以前に増して魚は人気者になっていました。
それは、青魚などに含まれる、DHAやEPAのことが盛んに取り上げられたからです。
それが、政府の政策なのか、企業などの情報操作の結果なのかは分りませんが、すっかり「背骨が曲がっている魚」のことなど話題に上がらなくなりました。
新聞やテレビで、「背骨の曲がっている魚」が出てきた頃は、私は玄米菜食を主催する森下博士の御茶ノ水クリニック内の物療科で臨床を手伝っている頃でした。
その時、それがキッカケで、背骨の曲がっている、つまり側弯症の患者さんの割合をチェックしてみました。
すると10人に1人の割合でした。
それから、一昨年、私の六本木のエネルギー回復療法「医美」において、約26年振りに、側弯症をチェックしてみて驚きました。
10人に9人が側弯症でした。
側弯や弯曲障害が、今では当たり前になってしまっているのです。
あの時、「背骨の曲がった魚」がなくなったから、魚が食卓に戻ってきていたのではなかったのです。
背骨が曲がっている魚が、当たり前になってしまったからなのです。
新聞やテレビ、さまざまな報道は、そのことを完全に葬り去ったのです。
後になって分かった時には、「人の背骨は曲がっているのが当然」、になってしまったのです。
それは決して正常な生理的な弯曲を指してはいないのです。
あきらかに異常です。
私が小・中学生の頃は、側弯症は珍しい方で、学校でもチェックしていましたが、今ではそれも聞きません。
医療現場にいる者であれば誰もが知っていることです。
私たちのような治療者が声を上げるよりは、大病院の有名な医師、あるいは少なくとも医療関係者が、なんらかの形で国民に警告を与えていれば、10人の内9人までもが異常という事態にはならなかったと思います。
ここまで書いて、ふと、思い出したのですが、皆さんも覚えているのではないかと思うのですが……
無謀手術—無関心、無感動
東京・所沢であった、産婦人科の〇〇病院のことです。
子宮筋腫でもないのに、子宮を取ってしまう。
何の問題もない卵巣を次々と取ってしまった。
そんな事件がありましたネ。
事件になって以後も、裁判になっても、その院長は悪あがきをしていたとありました。
これと同じような事柄が、日本全国で、毎日のように行われているのです。
懲りることもなく、絶えることもなく、そんなことは続けられているのです。
あれだけ騒がれたことですから、少しは変わるだろう。そう国民は心密かに期待をしていたのだと思います。
しかし、下火になるどころか、益々ひどくなり、さまざまな事柄が葬り去られただけです。
「そんなことをすれば事件になる」
「そんなこといつまでも続けていてはいけない」
「こんなことをしてはいけない」
そんなことを少しでも考え悩むのであれば、きっと時間がたてば減っていくものなのです。
しかし、減っていかないのはどうしてなのか。
それは無関心、無感動からくるものです。
人の痛みがまったくわからないのです。
パソコン以前の時代でも、そういう人はいました。
今はパソコン上で戦争をしたり、相手を殺したり、暴力をふるうことの戸惑いはありません。
それは、ゲームであり、遊びだからです。
しかし、ゲームと現実の区別がついている人ばかりではありません。
ゲームも現実も同じになっているのです。
ナイフで刺して、人が倒れる。
これは、当たり前の当然なことです。
しかし、ゲームではその後、起き上がってきて、また、動き出し、自分に向かってくるのです。
再び、前よりもさらに激しく刺すのです。
そうするとようやく起きあがらなくなるのです。
……と!ところが、再び起きあがってくるのです。
自分が刺した相手は、人間だと思っていたのに、実はヴァンパイアだったのです。
引き返って、さらに、さらに刺し続けなければならないのです。
人間の衣を着たヴァンパイアをやっつけるためにです。
彼らにとっては、自分以外の人間は、皆ヴァンパイアに見えてくるのでしょうか。
それがパソコン世代の特徴なのでしょうか?
現実とゲームの境が分らなくなっているのです。
そんな人達が、今はあらゆる分野、あらゆるところにいるのです。
そんな人が、教師に、医師に、公務員に、郵便配達員に、弁護士に、夫に、妻に、親に、子供になっているのです。
どうしてあなたは、そんな空間から自分を守ることができますか?
「満たされた先にあるのは、破壊です」
今は、「満たすことと、怠慢と破壊が入り混じった時代」です。
何でこんなになったのか。
思い出してください。