ヒューマンエネルギー研究所

医療の世界に飛び込む

 
最愛の姉の娘が、知的障害があると知った時、姪はまだ3才でした。
「自分は何ができるのだろうか」と考える日が続きました。
看護は生きている限り必要だろうから、看護の勉強をやろうと最初は考えましたが、当時の男性の看護の領域はかなり限られたものでした。
他にいろいろ捜した結果、当時注目を浴びていた漢方医学に「そうだこれだ」という直感を得ました。
本屋さんへ行って、資料を調べ、鍼灸学校を探し出しました。
それから入学金と授業料、しばらくの間の生活費を稼ぐために、昼間トレーラー、夜生コンの車の仕事に逆戻りしました。
高校に入って以来、積極的に勉強する時間など、ほとんど取ったことがありませんでしたが、長距離の仕事をやめ、しばらくして不動産取引主任の免許を取った時、六法全書を片手に3ヶ月勉強したことがありましたから、鍼灸学校の入試には少し自信も持てるようになっていました。
それだけではなく、高校を卒業した後のいろいろな試験は、ほとんど一発で合格していましたから、その自信もあったのでしょう。
受かって当然のような気になっていました。
ところが入学して知ったのですが倍率は6倍、東大や早大の卒業者でも合格できなかったというのです。
運が良かったのでしょう。晴れて鍼灸学校1年生になりました。26才の春でした。

26才以後、54才になる今日までの約28年間は、ほとんど治療の世界にいましたが、それまでに80以上の職業を経験することができました。
30才までに、100の地域で100の仕事をしようと思っていましたが、結局は達成できませんでした。
しかし、生きてるうちにその目標は達成したいと、今も思っています。
いろいろな地域に住むこと、いろいろな職種、職場を経験することは私には必要でした。
それは「社会を知るため、自分を知るため、そして人を理解するため」に必要だったのです。
その目的は達成できたように思います。

その中にはデパートの催事の企画もありました。
それは全国を放浪していた頃、たまに車に乗り、友人と新宿の先輩のスナックへよく飲みに行っていました。
そこで、「外国の物産がたくさん残り、それをなんとかしたいんだけど、適切な人物を紹介して欲しい」とスナックのマスターに頼んでいた人がいました。
すぐにマスターは私の顔が頭に浮かんだそうです
露天商も経験し、スーパーなどで展示販売もしていたこと、その他、いろいろ経験しているということで紹介されました。
その会社は、四谷見附の交差点の角の最上階に有りました。
主にタイの物産でしたが、他にペルーのものもたくさんありました。
その会社に紹介された者は、私以外にもいました。
 彼は上智大学に在学中に、オーストラリアを一周しようと全校に呼びかけ、1年後にメンバーを集め、3ヶ月の冒険に出発したそうです。
帰国後、間もなくして彼は銀座松坂屋において日本初の外国物産展を開いたのです。
今から約40年前のことです。
その企画が当たり、その後彼は北海道に渡り牧場で馬の世話をすることにしたそうです。
その数ヶ月後「北海道日高から馬で富士山に登る」という計画を実行しました。
これは、テレビのニュースで度々全国に紹介されたそうです。
それを見た視聴者が、途中彼を待ち受け、共に馬で連れ立って旅をしたのだそうです。
週刊誌にも取り上げられ数ページを彼の紹介にさきました。その週刊誌を彼はいつも持っていましたから、私も見ました。
富士登山を終え、彼は押しも押されぬ企画マンになったそうです。
彼は私より10ほど年長でもあり、私の憧れの人物になり、私の師にもなりました。
その彼の知人に今は誰もが知っている早稲田大学考古学教授吉村作治氏がいました。
そして、彼を紹介されました。
吉村氏はもうその頃から有名人ではありました。
「今世紀最大のエジプト遺跡の発掘」のニュースをテレビで見たのは紹介される数年前のことでした。
当時吉村氏は30前の若い学者でした。
すでにその時、代々木に「エルタール」というエジプト料理の店を経営していました。
その頃から彼は料理は得意だったのです。
なぜ紹介されたのかというと、某デパートにおいて「世界珍品逸品秘境市」という企画を立てました。
世間には、世界中を冒険している人物が各地におり、手元にいろいろ珍しいものを持っている人が結構いるのです。
それらを借り受け展示しながら、同時に例の物産も売ろうという計画でした。
そうです。吉村氏はいろいろなエジプトの珍しいものを持っていました。それを借りることにしたのです。
それをきっかけにそれ以後お付き合いするようになり、実家の呉服の展示に駆り出され、東郷会館に運んだこともありました。
その時、奥さんや二人の子供も紹介されました。
それ以後も、お付き合いをさせていただきましたが、私が「鍼灸学校へ行くようになりました」と一緒にスナックで飲んでいた時報告すると「金君、マッサージを習得したらアラビアの王様の専属マッサージ師として紹介するよ。頑張ってね」と励まされました。
それが吉村氏とお会いした最後になりました。
それ以後お会いしてないのでチャンスがあれば何かの企画でご一緒したいと思っています。
ちょうどその頃金沢で北陸海洋博があり、その展示に私の師、坪氏と共に参加しました。
私は荷を積んで先に帰京しましたが彼はそのまま金沢に残ることになりました。
それ以後約15年会うことはありませんでした。
ある雑誌の企画で細川流一郎氏と対談した帰り、渋谷のスクランブル交差点でやはり同じ頃に知り合いになった日本相撲協会の理事をされている砂田氏に15年振りにお会いしました。その時に「坪氏のことを知っていますか?」と尋ねると「知ってるから連絡してあげる」ということになりました。
15年振りで新宿のビルで会ったかつての私の師は、すっかり変わり果てていました。
「アルコール中毒で3回目の退院を昨日してきた」ということでした。
15年前の金沢での突然の行方不明は、「昔の仕事のことで警察に呼ばれそのままごやっかいになっていた」と言うのです。
その後は互いの連絡が取れず、そのままになってしまっていたということでした。
どうしても私は彼に会いたかったのです。
それは「人は自分の師を乗り越えなければならない」と考えていましたから、彼と別れて以来、どうしても目の上のたんこぶのような存在になっていたからです。
だから彼を乗り越えるために、会いたかったのです。

最初、昼間部の授業に出ながら、夜はずっと生コンの車を朝まで乗っていました。
生コンの会社は品川駅の海よりの高速道路の下にありました。日産の2tのバンをキャンピングカーに改造し、高速道路の下に駐車し、そこから鍼灸学校や会社に通っていました。
朝9:00に起きて10:00からの授業に間にあうようにでかけ、午後4:00にもどり、仮眠し、6:00から生コンの仕事をしていました。
仕事は午後6時から翌朝5時頃までありました。
生コンの車は仕事の後の洗車が大変なのです。寒い冬の早朝、1時間あまりの洗車はやはりきついものがありました。
その頃丁度、神宮で「日本キャンピングカー○○○」という催しがありました。
私も自分で改造したキャンピングカーがありましたから、「是非展示して下さい」とこわれましたが、結局は展示する時間が取れず、そのままになってしまいました。
その後のキャンピングカーとの付き合いを考えれば、この時、「無理してでも展示しておけばやかったのになー」と今は思っています。
その1ヶ月後、キャンピングカーは無惨にもドロボーに逢い、車の中に入れておいたすべてのものを持っていかれました。
すぐ交番に届けましたがまったくの形式だけの受付で、その後何もありませんでした。
交番や警察の対応がどういうものなのかを、身近に感じた出来事でもありました。

そんなこともあり、もっと勉強に集中しなければと思うようになりました。2学期からは夜間の授業に出るようにしました。
そのおかげでチャンスが巡ってきました。昼間部の授業に出ていた時の友人が「リンパマッサージの創始者の研究所で技術を勉強しないか」と聞いてきました。
二つ返事でOKしました。
それが私のリンパマッサージとの関わりの最初でした。
期間は短かったのですが、内容は充実したものでした。
そこをやめると同時に、また、声がかかりました。
今度は玄米菜食の自然医学「森下敬一博士のお茶の水クリニック内の物療科」で勉強しないかと誘われました。
鍼の実践と漢方薬、自然食、カイロプラクティックと学ぶものがたくさんありました。
約2年間在籍しましたが、本格的にカイロプラクティックを勉強したくてやめることにしました。
今は、アメリカ帰りのカイロプラクターは300人を越していますが、当時、アメリカ帰りのカイロプラクターは2・3人しかいませんでした。
その一人、塩川満幸Dc(カイロプラクティックドクター)の主催するカイロプラクティックスクールの一期生になりました。
素晴らしいカイロプラクティックの理論と技術に夢中になっていきました。お茶の水クリニック時代の仲間がたくさんいたこともあり、スクールで習ったことを週末に皆を集め、指導もしていました。
技術の実践にはサウナへアルバイトで入り、マッサージと併用してカイロをがんがんやっていました。
当然に勉強熱心、研究熱心ですから、クラスでもダントツに目立つようになっていました。
アメリカからも次々に本家本元の技術開発Dc(カイロプラクテックドクター)が来日し、セミナーを開いていました。
私に取っては受講料は大金でしたが、積極的に参加しました。
卒業する頃には、私のセミナーや研究会にも大勢が参加していました。
しかし、そんな私も一時治療に対して行きづまったことがありました。
それは「どんな治療法を習っても100%納得のいく治療にはなり得ない」ということがわかった時でした。
100%納得のいく治療法を求めて勉強していた私にとっては、「他人が考え出した理論や技術を習得しようとしても、100%自分のものにはならない、それだけではなく自分の目の前にいる患者に対して、今あるどんな理論や技術であろうと、100%的確には当てはまるものなどあるわけがない。
患者の情報は必要であれば、今、自分が直接入手することができる。それなのに目の前にいる患者に対しての治療法でもない、人の理論や技術を使おうなんて何てバカげたことか」ということに、それは気づくチャンスでした。
それからは目前の相手(患者や相談者)から、直接自分が必要としている情報を入手するよう努力するようにしました。
すると、それまで習ってきた理論や知識は、何の役にも立たないことが分かってきました。
何で、今まで治療効果が上がらなかったのか・・・・・・
それは自分の編み出した理論や技術でないからです。
技術は単純でいいのです。
一番必要なことは、相手が求めている目的を達成すること、なのですから、そのためにはどうしたらいいのか・・・・・・
それからは試行錯誤、いろいろ研究努力しました。
身体は、現在の精神状態や肉体の情報だけでなく、過去の情報も内蔵しているのです。
その情報を、正確に正しく取り出すことができれば、精神面においても、また、精神的な問題が原因のものも治療できるはずです。
そう考え、日夜臨床に励んでいました。
そんなある日、カイロスクールの一期生の友人から「アメリカのドクターの所で3ヶ月研修を受けてきたのでその報告をするので来ないか」とTELがありました。
早速出かけました。
その時は四期生の授業でした。
それに参加した時でした。「筋肉の強弱で、内臓の機能の状態が分かる」ということを聞いたのは。それがキネオロジーでした。
「そうだ筋肉を使えばいいんだ」私は筋肉がもともと専門でしたから、そう閃いたのでしょう。
といって、ボディビルをやっているから気づくとは限りません。
案の定、私が関わったあちこちのボディビルセンターで実演しましたが、皆驚くばかりでした。ただ筋肉の強弱で内臓の状態がチェックできても、患者の求めている結果が出るというものではありませんでした。
説明されたのはそういうものでしたが、実際の「治療に筋肉の検査をする方法」を応用するまでにはそれからまだ時間を必要としました。
その頃の私の治療は受講生の紹介の患者さんを中心に診ていました。
受講生のところに来院する患者で、手を焼いている人だけを私は診ていたのです。
ですから、いわゆる難治、難病の人や、難しい症状の人ばかりでした。
それらの病気や症状は肉体だけを診ていては、よくすることができないのです。
それでいろいろな方法を試行錯誤、研究していました。
過去の出来事、ケガ、病気が原因なのか?人間関係なのか?仕事、家族、未来のことが気がかりのストレスが原因なのか?履き物、着ているもの、身につけているもの、食べているもの、いつも座っている向き、使っているもの、その他、考えられれることのすべてを投げかけて、検査してみたのです。
最初の内は、同じ筋肉を使った検査法でも強弱を診ていました。
患者本人や患者の替わりに第三者を使うこともありましたが、皆疲れてしまって、長続きしなかったのです。
生理・解剖・病理・漢方ぐらいの質問であれば、何10からせいぜい100ぐらいの質問で事足りますが、過去や未来のいろいろなこと、人間関係のいろいろなことまで質問していくようになると、とても筋肉の強弱検査では間にあわなくなりました。
そこで、次の検査法を開発する必要に迫られ、開発したのが「筋肉反射検査法」だったのです。
これは、筋肉の緊張度をチェックするのもので、腕に触れるか触れないかぐらいの圧(強さではなく)で行うものですから、被検者はまったく疲れないのです。
それにものすごい早さで質問をし、答えが出てきますから、多量の質問をすることができるのです。それにより相手の情報を多量に入手することができますから、より正確になったのです。
また、相手が自分の過去や人間関係のことをどれだけ認識しているかといえば、それはかなり低いものです。
それに、未来や身の周りのいろいろなものが、自分にどのような影響を与えているかなど、ほとんどわかるはずがありません。
そんないろいろな質問をして出てきた答えを整理すると、今の病気や症状の原因を見つけ出すことができ、その治療法も捜し出すことができるのです。
これはまったく新しい画期的な検査法でした。
そんな研究をしながらの臨床でしたから、独自な治療法を編み出すことにになったのでしょう。
ますますセミナーに参加する受講生も増えてきました。
彼らは全国各地から来ていました。この筋肉の強弱を検査する方法と、反射を応用する「筋力応用治療学・基礎編(4,500円1983年出版)」「筋肉反射応用治療学(15,000円1987年出版)」の2冊の専門書を世に出すことにしました。
今では一般の人でも、「Oリングテスト」といえば結構知っている人もいます。
これは、アメリカ在住の心臓外科医大村Drが、やはり私も師事したアメリカのジョージ・グッドハートDcより筋肉応用治療学(キネシオロジー)を学び、すでにそれまで使われていたOリングテストを日本に紹介しました。
「Oリングテスト」は約50ある筋肉検査の中の一つにすぎません。
その一つなのですが、簡単で便利な検査法です。
それを心臓の外科医が自分なりに臨床に応用していったのです。
本来はそういうものでした。
この筋肉応用治療学は自分なりに臨床で研究し、作り上げていくものなのです。
自分なりに研究し、完成させた者でなければ、それは使いこなすことができないものなのです。
それは、私の「筋力応用治療学・基礎編」が出版されて2年後のことでした。
鳴り物入りで出版された「Oリングテスト」はまたたく間に広がりました。
しかし私は当初から知っていました。
心臓外科医が臨床で使っているものですから、心臓外科以外の治療を行っている人が使いこなそうとしても、それは無理があるということを。
そうとも知らず「Oリングテスト」はどんどん広がり、いつの間にか大村先生の意図したものとは違うものになっていきました。
それぞれの人が、自分の都合のいいように解釈し、使い出したのです。それは時間が経つにしたがってますますひどいものになっていました。
その結果「Oリングテスト」は信頼されなくなっていきました。
もともとが無理だったのです。
たぶん、そこまで大村先生は考えておられなかったのでしょう。
私は、すでにそれを知っていましたから、「解体検査は使う者が主催者だから、病気とは、人とは、を充分に知った上で行わなければ混乱する。そのため、技術を教える前に、治療とは、人とは、の本質から指導する」ようにしていました。
それがかえって理解を難しいものにした感もあります。
簡単なものが広がりやすいのです。
「適当に自分なりに解釈してやればいい」そんなものが広がり易いのです。
しかし、結局はほとんどの人が使いこなすことができなかったようです。
安易に取り組み、安易に利用することで、せっかくの宝物をただの石ころにしてしまったようなものです。
この大村先生の「Oリングテスト」が出版される2年前に「筋力応用治療学・基礎編」を出版しました。まちがいなく広がると思っていました。なぜなら、自分の行う治療ですから「自分が主催者であり、自分の持っているシステムを、すべて応用できる検査法ですから―そんなもの他にはありません。
その後、私独自の研究から完成した「筋肉反射応用治療学」を出版したのです。
これは前著より一歩進んだ内容になってます。
前著はグッドハートDcの著書を紹介したようなものでしたが、「筋肉反射応用治療学」の方はまったく私独自のものでした。それはまさに私の生き方、人生観から来ているものでした。
またたく間に全国に広がり、治療業界ではベストセラーといわれる2000部を販売しました。
その後も2000部ぐらい注文がありましたが、改訂版を出そうと増刷はしませんでした。
また、同時に治療法の技術版として「治療家の為のソフトドロップ矯正法(13、000円 1983年出版)」も出版しましたが、これも1年ほどで2000部を販売し、改訂版を出す予定で増刷しませんでしたが、やはりその後も3000部以上の注文が来ました。その後、徒手で治療を行う技術書として「触診可動検査ソフト徒手矯正法(22、000円 1985年出版)」も出版しました。又一般書としても「筋肉はあなたのすべてを知っている(1,000円 1986年出版)」「気オロジーとワンショット療法(1、200円 1990年出版)」も出版しました。これも1年足らずで1万部を販売し増刷もしました。
これらの本を出版するのを機会に、全国各地の医療器具店を回りセミナーの協力を依頼して回りました。
札幌から沖縄まで20ヶ所近く回りましたが、「カイロプラクティック」といってもほとんどのところが何のことかまったくわからないというのです。
「ホッカイロは知ってるけど、カイロプラクティックって食べられるの?」全国の医療器具店がこの程度ですから、一般の人にはカイロプラクティックといっても全然通じませんでした。
私の出版したものを手に説明して回りました。
そのおかげで大阪、名古屋、金沢、熊本、福岡でセミナーの開催が決まりました。これが「全国セミナーのスタート」となりました。
それから約10年、医師、歯科医師、あらゆる治療家、教師を対象にセミナー、講演、合宿等を行いました。
その数約3000回を越しました。
その間にも全国各地に広がり、全国30都市においてセミナーを開催しました。また、途中「筋肉反射検査法」が「空間キャッチ」というまったく新しい、さらに画期的な検査法に変わっていきました。
これは、人の腕を使った反射検査では、もう追いつくことのできないぐらい、目の前にいる人についての質問が用意できたから必要になってきたのでした。
というのは、全国セミナーを始めて1年も経ってない頃のことです。ますます難しい患者さんが紹介で全国から来るようになりました。そんな人の治療をしていると思いがけないことに出会うことがしばしば出てきました。
それは「まったく難しい患者さんですから宜しく」と頼まれて診るのですが、割と簡単によくなる人が出てきたのです。
本人も「どうしてでしょう?どこへ行っても良くならず、もう何年も辛い思いをしてきたのに、こんなに簡単によくなるなんて・・・不思議です」と言うのです。
私の治療は初めの頃から、皆とは違っていました。
それは私の生き方からきているものだと思います。

その人が「どうして私の所へ来たのか?何をどうして欲しいというのか?今までどんな生き方をしてきたのか?今、何を考え、これからの生き方をどう考えているのか?」
まず最初に確認します。
それに私は人が好きなのです。その人に興味を持ってしまうのです。
だからその人を知りたいのです。
結局2時間位は話し合うようになるのです。
そうするとあっちが痛い、こっちが痛い、悪い、といってたのに、話し終わった時にはばくなっているのです。
私も初めの頃はどうなっているのだろう、と考えたりもしましたが、これは当然のことだったのです。
その答えは2・3年後にはっきりと出ました。