ヒューマンエネルギー研究所

第6章 「自己センサー」を鍛えるのはコミュニケーション 

 
この「自分センサー」を磨くのに一番大切なことが、「コミュニケーション」です。
コミュニケーションには、「自分と身体とのコミュニケーション」・「自分と心とのコミュニケーション」・「自分と他人とのコミュニケーション」・「自分と物とのコミュニケーション」・「自分と時間とのコミュニケーション」・「自分と空間とのコミュニケーション」があります。
これらすべてのコミュニケーションが必要です。
「コミュニケーション」-「伝える」ということ。あるいは、伝えられるということ。簡単なようで、実はむずかしいのです。
「伝える」といことを考えてみると、
事件や事故、政治のニュースを「伝える」。
そんなことではなく、すべての人の一人ひとりの人生や健康や幸せや命に関わることです。
国会の討論を「伝えたり」、投票することももちろん、人生や健康、幸せ、命に関わっていることです。
しかし、国会で討論する人たちがあまりにも「一般の人」からかけ離れてしまい、「自分たちの私利私欲をブツケあっているだけにしか見えない」。そんな政治に、一般の人たちはもうすっかり愛想をつかしてしまっています。
だから国会で何をやっているのかさえ、興味もわかないというわけです。
ところがここでいおうとしている「伝える」は、ものすごく身近で誰にも関わっていることで、誰もが関心をもつものです。

 それを話す前に、十数年前ソ連のチェルノブイリ原子力発電所が爆発事故を起こしました。
今でも、ときどき報道しています。
先日も被爆少女が日本で歌手としてデビューし、各地でリサイタルを開くと同時に、被爆被害を訴えました。
心打つものがあり、「何か役に立つことをしなければ」の気持ちをじゅうぶんに高めました。
彼女が、何をいちばん「伝えたかった」のか
「被爆した自分たちチェルノブイリの子供たちを支援して欲しい」と、いうのか
「元ソ連―ロシアでの原子力発電所の危険を訴えたかった」のか
「日本でも行っている、原子力発電の危険性を訴えたかった」のか
「今回は私たちチェルノブイリに住んでいた者が被害にあったが、次はあなたたち日本人の番かも知れないのだから、原子力発電は危険が伴うのです」と訴えたかったのか。
みなさんは、どう思いますか。
 つい先日、山手線大久保駅ホームで線路に倒れた人を助けようとした韓国の留学生と日本のサラリーマンが、逆に犠牲になりました。
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌で、連日のように取り上げました。
このニュースは、日本だけでなく韓国でも大きく取り上げました。
「人の命の大切さ」を、訴えるものでした。
二人の勇気ある行動が、その後全国各地の電車ホームを歩いている身体の不自由な人や年寄り、子供、酔っ払い、突然目まいかなにかでフラついたり、倒れそうになった人たちに、周りの人たちは気を使うようになり事故も減ったのでしょうか?二人の尊い命がそんな形で全国に、また外国までも影響し、そのお陰で何人もの人の命が救われたのであれば、決して二人の死はむだになったと思えないのですが・・・・・
二人は、命を張ってそんなことを「伝えたかった」のではないのでしょうか。
 よく聞く、「そんな現場」にいあわせたことのある人も結構いるのではないかと思われるものに、車中の出来事があります。
女子中・高生が2・3人で、大きな声で所かまわず話しているのに出会います。
幼児、子供が車内を走り回っているのにも、出会うことがあると思います。
大股を開いて座っている人、脚を投げ出して座っている人、そんな人はしょっちゅう見かけます。
迷惑だとは思っても、誰一人声をかけたりしません。
別に車内ではなくとも、道路で幼児・子供が急に飛び出したりしても、誰も声をかけません。
実は、その後のことなのです。
子供が飛び出し、自転車、バイクに跳ねられた後です。
それを目撃し、あるいは直面したにもかかわらず、素通りしてしまう人がいるのです。 自転車は、バイクは、跳ねておきながら、そのまま逃走してしまった。
それを見ても何もなかったように、子供の方にも、自転車、バイクの方にもまったく見向きもしない。
同時に目撃、直面した人が複数いるにもかかわらず、誰も何もしない。
その後、子供がどうなったかということは気にはなるが・・・・・
後日その現場の電柱に立て看板があり、「○月○日○時○分頃○○君がバイクに跳ねられ、その後死亡した」とあります。
また、「そのバイクを捜しています。目撃者を捜しています。連絡下さい。」
日本全国あちこちで、同様なことが日常的に起っています。
これは、無関心だから起ることなのでしょうか。
昨日まで元気にしていた「父」・「母」・「姉」・「兄」・「妹」・「弟」・「子供」・「甥」・「姪」・「友人」・「同僚」・「隣人」・・・・・・・今朝は半身不随で車椅子。ただびっくり、どうしたんだろう。
当人はただ呆然、廃人のように・・・・・
自分は、何をしてやればいいのだろう。
何ができるのだろう。
あまりの無力に、これも呆然。

 先日の、米国同時テロ。
何度も何度も、繰り返しテレビで流れるニュース。
誰もが驚愕した事件でした。
しかし、どの事件もニュースも時間が経つと、どこかへ跳んでいってしまいます。
1ヶ月もたてば、すっかり忘れてしまうもの。
6ヶ月で忘れてしまうもの。
1年で忘れてしまうもの。
その中で、2年たっても忘れないものもあります。
身近な人の事件や事故です。
5年経っても忘れ去らないもの。自分の身内に起ったことです。
10年経っても20年経っても、さらに、生きている限り忘れることのできないもの・・・・・
それは自分の大事故や大事件で後遺症が残ったり、片目が、見えなくなったり、片腕が、片脚が使えなくなったり、あるいは車椅子にのるはめになったりした時のことです。
そこまでくれば、だれでも「人ごとではない」ですよね。
少し周りを見渡してください。
片目、あるいは両眼が見えない人。
片腕、片脚が不自由な人。
車椅子に乗っている人。
結構多いことに、気づくはずです。
しかし、それ以上に不自由で外出も出来ず、家に閉じこもっている人のほうが多いということも知って下さい。
それが自分であれば、一生の問題です。
そんな人が、周りにたくさんいるのです。
そんなにいるにも関わらず、また、今日も一人、仲間になっていくのです。
止まることなく、毎日そんな人が増えていきます。
それまでの人生とは180°違う生き方が、待っているのです。
何一つその準備もしていないのに、突然やってくるのです。
どうすることもできない―不可抗力―もあります。
それでも人は、受けいれることはできません。
ましてや、人為的な事故や事件で、そんな風になったとしたら・・・・・ まったく受け入れることなどできません。
どうしても受け入れることができないというのであれば、「あなたはそれに対して日頃から何か手を打っていますか?」
そうならないようにです!
「突然、道路に飛び出した子供がバイクに跳ねられた」
もしあなたが目撃したのなら、すぐに救急車を呼び、警察へ電話をしていれば子供は死ななくて済すんだかも知れません。
車内で股を開いて座っている人に声をかけてけんかになっているのを見たら、すぐに警察に電話をするか係員に通報するかすれば、大事件にならなくてすんでいたかもしれません。
ホームで酔っ払って千鳥足で歩いている人を見かけたら、駅員に通報すればホームから線路に落ちずにすむかも知れません。
あなたがいつ人にいいがかりをつけられて、けんかに巻き込まれるかもしれません。
あなたがよい気分で、ホームをついふらふら歩くかもしれません。
あなたの子供が、突然、道路に跳び出すかも知れません。
テレビや新聞のニュースとして事故や事件を知ることが多いのですが、いつそんな事に出くわすかしれません。
その時、大股を開いているのは(つまり注意を受けるがわという意味)あなたかもしれませんし、注意しているのがあなたかもしれません。
そしてバイクに乗っているのがあなたかもしれないのです。
相手は常に自分であり、加害者もあなたなのです。
そして子供はいつも自分の子供であり、年寄りはいつも自分の親や祖父母です。
女性はいつも自分の娘であり、妹であり、姉であり、母であり、祖母であり、恋人であり、奥さんなのです。
男性はいつも自分の息子であり、弟であり、兄であり、父であり、祖父であり、恋人であり、夫なのです。
いつ誰がどっちにいるのか、まったくわからないのです。
テレビや新聞で「伝えられる」ことは遠い事です。
しかし、自分のことだと思って受け止めれば、米国の同時テロ、テレビ、新聞での全国の事故や事件も自分に何か「伝えている」はずです。
それは、いったい何なんでしょう。
そうです。「無関心・無感情・無視ではいけない!」
と、「伝えて」いるのです。
ちょっと「伝える」だけで、すむことが多いのです。
「子供に、隣の若者に、バイクに乗っている人に、酔っ払っている人に」です。
多分、多くの人はその「伝える」時の「伝え方」を、まだ自分のものにしていないのではないでしょうか。
横柄を決め込んでいる相手に上から注意しようとしても、最初から「そんな注意は聞かん」と態度で示しているのですから、まったくそれとは反対に下手から、あるいはお願いすれば、また、相手も違ってくるのではないでしょうか。
なかなかできることではありません。
決して警察官や駅員だけが下手から、あるいはお願いを、すればいい訳ではないはずです。
警察官や駅員は事故や事件が起こらないように問題が起こらないように考えて下手からお願いしているのです。
私たちもみんな彼らと同じように下手からお願いしてもいいのではないでしょうか。
なぜなら、事故や事件、問題を起こしたいと思っているわけではないのですから。
あなただって注意されて聞かない時があるでしょう。
人や場所は、ともかくです。
人それぞれですから、さまざまなところでいろいろなことをしでかします。
それでも、「自分だってそうなんだから」
そんな時「自分だったら上から注意されたいか、下手からお願いされたいか」を今一度考えて、やはり、下手から相手に「伝えて」あげるのがよいと思うのです。
「すみません、混雑してきましたから少し閉じていただけませんか」
笑顔で「伝えて」あげて下さい。
何度もいいます。
もしあなただったら、怒った顔で注意されたいですか。
それとも、笑顔で「伝えられたい」ですか。
これほどまでに、「伝える」ということは難しいのです。

 「伝える」という意味を考えた時、他にどういういい方ができるでしょう・・・・・ 「躾」・「教育」・「指導」・「育てる」
そんな言葉になると思います。
「躾」を考えた時、「親が子供に対して行う」そんな場合が主です。
そんな時、親はどんな気持ちで「躾」をしているのでしょう。
先程のいろいろな場面でのことを考えると、相手とはほとんど面識もなく、人柄も何もわからない相手でした。
しかし、「躾」は自分の子供に行うわけです。
何を「伝えたい」のか、何を「伝えようとしている」のか
それがはっきりしていなければ、たとえ我が子でも「伝わらない」はずです。
「人は人に、何を伝えなければならないのか」
「親は子に、何を伝えなければならないのか」
「夫(妻)は妻(夫)に、何を伝えなければならないのか」
それは、もう決まっていることです。
ほとんどの場合、伝えられる側は「自分の存在している意味を知りません」
だから伝える側、は「その人の存在している意味を教える」ことになるわけです。
それが、「躾」「教育」「指導」「人育て」の基本です。
「その人」が今生きていることの意味をじゅうぶんにわかっていれば、「たぶんそんなことはしないであろう、たぶんそんなことはいわないだろう」というのがあります。
決して常識的なことでもなく、社会的なことでもないのです。
あくまで、「その人の元」的なのです。
伝える側が、自分の都合、あるいは社会的都合で伝える場合は、伝える側がわかっていないのです。
この「伝える」は、まったく「損得、駆け引き、取引、条件付き」はないのです。
もしあるとすれば、「伝える」ではなく「都合上の話」でしかないのです。
だから「親の都合で行う躾」は、子供にとってはまったく必要のないものです。
それは、親にとって都合のいいものだからです。
どちらにしろ、子供はあまりいうことを聞きません。
なぜなら、「自分の元からの波長と違うことをいっている親のいうことはあまり入っていかない」のです。
本当の「その子」の存在していることの意味を分かった上で子供とコミュニケーションすれば、子供は何をいっているのかがよく入っていき、よく理解できるのです。
決して「子供は親の都合で育てるものではない」、ということです。
同様に、「教育」も社会の都合で行うものではない」、ということです。
そんなことをしても、「小・中・高校生」がよく受け入れているかというと、そうではないでしょう。
「変だ!」「おかしい!」ことぐらいをキャッチするセンサーは、若ければ若いほどまだ誰もがもっています。
10代の、まだ「自分の元からの波長をしらずしらずキャッチしている若者にとっては、元の波長と違うことを伝えようとしている親(躾・家庭教育)や教師(学校教育)を、素直に受け入れられないのは当然です。
それは、20代になって会社勤め(会社教育)をしても、同様なことが起きます。
「自分の元の波長」と違うから、反応してしまうのです。
しかし、そのうち無理やり仕込まれ、慣らされ、従わされてしまいます。
そうしなければ、親が、学校教育制度が、会社組織が、納得しないのです。
「自分の元からの波長」のまま生きるか、
それとも、それを棄て親の、学校の、会社の、社会のいいなりになるのか。
若者はずっと悩んでいくのです。
そして多くの大人になった人たちは、「自分の元の波長―つまり自分そのもの」を棄て去ってしまっています。
しかし、実際には子供の時から無理やり押しつけられていくうちに無意識に「自分」をなくしていっているのです。
そんな人は、「自分の元の波長」といっても「まったくわけがわからない」といった風になっています。
「自分の元の波長」の話を各年代別に行うと、年齢が低いほど受け入れがよく、高いほど悪いのです。
それはすでにお話ししましたように、無意識のうちに少しづつ「自分」を棄てていったからです。
会社で教育されていくうちに、すっかり「そんな自分の元の波長をキャッチできなくなってしまっている人」になっていくのです。
しかし、もっと早くから自分を放棄(親の薦めや周りの環境に影響を受け、有名大学受験やその後の国家試験等の社会的打算的な志向を持つこと)してしまっている人もいます。
社会は、そんな社会的打算的な考え方をする人が出世するように作られていますから、出世している人ほど「自分の元の波長」はキャッチできなくなっています。
だからそんな人は「自分の元からの波長」という言葉さえまったく何のことか理解できなくなってしまっています。
しかし、そんな彼らでさえ、子供の時や幼児の時は当たり前にキャッチできていたのです。
しかし、「今は昔」です。
そんな人は、人のいう「元の波長」という言葉さえ、頭から否定していきます。
それは学校での教育で「科学万能」と教えられ、自分たちのやっていることが一番正しいと思っている人に多いのも、わかりそうな気がします。
共産主義世界で生まれ育った人にとって、共産主義しか知らず、すっかり慣らされてきている人にとって突然の崩壊は晴天の霹靂だったでしょう。
その後の経済至上主義への移行に、ついて行くことは大変に違いありません。
ましてや、資本主義社会で生活するとなると、それこそ大変だったに違いありません。
まったく根底から変わってしまっているのですから何もかも・・・・・・・

●誰にもある「自己センサー」

 しかし、それでもついて行く以外にないのです。 
「科学万能」と教えられてきた人が、西洋医学ではどうしてもよくならない、実際の病気や症状の治療に、「非科学的と今まで考えていた方法でよくなった」ということを何度も見、経験し、体験しても、素直に受け入れられるかというと、なかなかそうではありません。
なぜなら、受け入れなくても困らないからです。
逃げ道がいくらでもあるから、自分の都合がよいように解釈し、今までの「自分の元の波長をキャッチすることができない人」にまた、おさまっていくのです。
そんな人が、結婚します。
女性の多くが男とは違い、「自分の元の波長をキャッチできるセンサー」を持続しています。
そんな奥さんに、無理やり(本人は気がついていない場合が多い)自分の考えを、押しつける。
当然に、奥さんは受け入れられない。
2人の間に、づれが生じてきます。
これは、生活のあらゆる所で出てきます。
男は自分の仕事のためには、いろいろなものを犠牲にしています。
同じように、それを奥さんにも求めるようになります。
女性は、「仕事のためには自分を棄てる」という考え方を受け入れることなどできないのです。
それは明らかに、「自分の元の波長」とは違う波長だからです。
そしてそんな考え方は、「誰の元の波長の中にもない」ということもキャッチしているのです。
そんな奥さんに押しつければ押しつけるほど、抵抗が強くなるのです。
奥さんは、「自分の元の波長に対して素直」なのです。
それはエクスタシー、「元との一体」を、女性は常に予感しているからです。 それだけ、「自分の元」に近いのです。
男はそれだけ社会的、経済的、政治的なのです。
女性の打算は「自分の元」―エクスタシー―元との一体に近く、
男の打算は損得、駆け引き、取引、条件付なのです。
しかし、そんな男の打算も、年齢とともに変わってきます。
そうです。還暦の年頃になると、「元に還る」ようになっていくようです。
長い間忘れかけていた、「自分の元からの波長を少しずつキャッチできる」準備ができるようになっていくようです。
そうすると、これまでの自分の考え方や生き方に対しても、少し疑問が出てくるようになるのです。
そして、少しづつ「自分の元の波長に気を向ける」ようになっていきます。
もちろんこれは、「素直な人は」です。
60歳を越しても、70歳を越しても、80歳を越しても、「自分の元の波長」をキャッチできない人はたくさんいます。
どんな生き方が、その人にとって幸せか・・・・
それは、その人が決めればいいことです。
しかし、周りの人はその人の影響を受けますから、大変迷惑な人間になってしまうこともあります。
しかし、そんな人はそんなことまったくお構いなしです。
だからこそ、その歳までそんな風でいられるのでしょう。
どちらにしろ、もっと“自分の元の波長”に気を向けることができれば、夫婦仲良くいられるのではないかと思うのです。
夫婦の仲がよいことが、すべてのベースなのですから。

 親は子に対して、夫は妻に対して、教師は生徒に対して、経営者は従業員に対して、それぞれ自分の都合でしつけ躾・教育・指導を行います。
しかし、それらはほとんど例外なく「伝わる」ことはありません。
すでにお話したように「個人の都合」は個人の損得、駆け引き、取引、条件つきのものだからです。
自分の都合は、人には「伝わっていかない」のです。
そんな「自分の都合―損得、駆け引き、取引、条件つき」は、決して広がって行くものでもなく、「力」もないのです。
「他人の都合」よりも、「自分の都合」の方を、人は優先させます。
場合によっては、時期(子供の頃、小学生の頃、新入社員の頃、新婚の頃)や年頃によって「相手の都合」を受け入れることもあります。
しかし、そんな時期や年頃も過ぎれば、(中学生ぐらいの頃、中堅社員になった頃、倦怠期の頃、バツ3以上にならば)いつの間にか、誰でも自分の損得、駆け引き、取引、条件つき、ができあがっています。
そういう人に対し、教育、指導していくということは、並大抵ではありません。
その、一人ひとりにある、損得、駆け引き、取引、条件つきでさえ、人生全体で考えたとき、本当に本人にとって、有益なのかどうかも、誰にもわからないのです。
自分に得だと思ってやったことは、短い時間の中でいえたことであって、もっと長い時間の中で見たとき、決して得にはなっていなかった。ということはよくあります。
この場合は、「先が読めていなかった」というような表現をします。
「その時は損でも、後で得になればいい」、という言葉もあります。
しかし、その場合も、「後」という時間をどれくらいの長さのことをいっているかは、わかりません。
50年・60年という時間は、人生の半分以上、大人になってからでは大半の時間です。
この50~60年という長さをいっているのかどうかです。
そうなってくれば、人の価値観は余り通用しません。
「一体なにを基準に、どこから考えればいいのか」ということになります。
それはすでに話しましたように、
「何が本当なのか、何が本物なのか、何が真実なのかを見極めることです。
かたよらず「心を元にもどして」見極めることです。
どんな人も、「自分の元があるのですから、そこから自分に向かって波長が届いている」はずです。それを「キャッチ」するのです。
ということになると思います。
しつけ躾る人・教育する人・指導する人は、一人ひとり違う「その人の元の波長」を読めることが大切になります。
その上で「その人」に対して「伝えていく」のです。
「伝える」側が「自分の元からの波長」に従って行っているのであれば、それは間違いなく「伝わる」ものです。
「それぞれの元の波長は、すべての人の元とつながっているのですから、決して利己的であるはずはないのです」

● 私の出来ることは、皆さんもできます。
私の求めるものは、外にはなかった。
私の中にあった。
私の敵は、あなたではないのです。
あなた方の敵は、私ではないのです。
あなた方は、「自分自身」を敵にするのですか。
あなた方の「本当のあなたは、あなたの中にあるのです」から。

●自分の答えは、外にはない。
外に求めても、何も得られない。
外に求めるのは、「自分の求めるものは自分の中にしかない」ということを知るための試練でしかないのです。
それを知るのにどれだけの時間をかけるのかは、人さまざまです。
外に答えを求めるのは、逃げ(結局は何もない)でしかありません。
どんな苦しみ、悩みであろうが、その答えは自分の中にきっとあるのです。
しかし、自分の中にあるその答えを、どのようにして取り出すのかがわからない。
そんなことのできる人は、昔から存在していた。
そしてそんな人は、わずかにいたのです。
それは、今も同じです。
しかし、そんなことは、誰にでもできることなのです。
それほどまでに求めるのであれば、必ずできるようになっているのです。
それは、「自分の元の波長をキャッチする」方法を自分のものにすることです。
それには、「自分の元の波長をキャッチするセンサーを、鍛えることなのです。

● 人はみな悩んだり、迷ったり、困ったり、すれば、人に相談します。
いろいろな人に、アドバイスをもらいます。
しかし、決してそのとおりはしません。
なぜなら、人のいうことは皆みんなまちまちでいろいろです。
どれを聞いていいか、わからなくなってしまうのです。
かえって、混乱することさえあります。
それなら、自分自身に問いかけて出てきた答えならばどうですか・・・・・・・・・・・・・・
自分の身体は、どんな問題に対しても必ず答えをだしてくれます。
そしてそれは、「YES」か「NO」かで問いかけた時に一番はっきりと応えてくれるのです。
その答えを出してくれるものを「自分のセンサー」と呼んでいます。
その「自分センサー」は、身体中にあります。
顔にあり、腕にあり、背中にも、お腹にも、脚にも、お尻にもあります。
ただ性能の問題で、使いやすいところとそうでないところがあります。
使いやすいところは、反応の早いところです。
自分に問いかけて1分以上も答えが出てこないのでは、何10問も問いかけることはできません。
問いかけて数秒、あるいは1秒くらいで応えてくれれば、人に相談してその答えをもらうよりも早いということになります。
それなら、「自分で自分に問いかけてみよう」という気にもなります。
占いや気学、風水等の統計学よりも、「自分の身体が答えを出した、誰の答えでもない自分自身の答え」の方が、確実に信用できるはずです。
東洋医学の治療の中に、「人の体質を2つにわける」・「人の体質を7つにわける」・「人の体質を21にわける」というものがあります。
また、占いでは、「人を、100通りにわける」ことができる。
「人を、1万通りにわける」ことができる。
「人を、50万通りにわけることができる・・・・・・・・」
そうです。どんな治療法も占いも、せいぜい100万通りがやっとです。
日本の人口、1億2000万人。中国の人口、15億人、世界の人口、60億人いるにもかかわらずです。
そんな、100万通りくらいではすまされないでしょう。
1億人いれば1億通り、60億人いれれば、60億通りあるはずです。
それも、にてもにつかない答えがです。
そんな分類が、どんな学問の中にあるでしょう。
生き物、すべて違うのです。
人間、一人ひとり違うのです。
その一人ひとりの、みんなに間違いのない答えは、「自分の身体のセンサーが出してくれた答え」です。
誰もがもっている、「自分センサー」に気づくことです。
どんな問題に対しても、的確に正しく答えを出してくれます。
その答えに従っていれば、たとえどんなことが起ころうとも、まちがいなく対応できるのです。
それが、「自分の答えだから」です。
そんな「自分のセンサー」の発見から始めるのです。
その後は、少しづつトレーニングしていくことで、さらに性能がアップしていきます。
恋愛のこと、人間関係のこと、家族のこと、健康や病気のこと、仕事のこと、その他さまざま何でも来いです。「ツボ」に話を戻しますが、
その時代のその環境、風土、性、年齢、他さまざまなことをすべて無視し整理すると、教科書に書いてあるような「ツボ」になったのです。
そんなことは、「ツボ」に限らずあらゆる分野で起こっている誤解です。「当たるも当たらぬも遠からず」、あなたはそんなものを求めますか。
「一度にたくさんの人間に教えるためにはどうしたらいいのかを」考えると、結局はこのようになってしまうのでしょう。