ヒューマンエネルギー研究所

第7章 私が医療に関わった訳

 
実は、私もそんな専門学校の出身者です。
鍼灸―漢方医学が、注目を浴びた時代がありました。
私の記憶では、それ以前に中学生の頃にもあったような気がしています。
25才の時医学を志し、この世界に飛び込みました。
それまでの私は、「30才までに100の仕事を100の地域でやる!」
と決意し、20才の春から全国放浪の修行の旅をスタートさせていました。
なぜそんなことを考えるようになったのか。
それは小学6年生の時に受けた、「いじめ」がきっかけでした。
「いじめ」の体験の中で、自殺を2度も試みました。
中学へ進んでからは、「いじめ」の原因の追及と問題解決の道を探りました。
探る過程で反抗期を迎え、親に対して、学校に対して、社会に対しての反抗がエスカレートしました。
それが、高校浪人として跳ね返ってきました。
また、それが学校教育というものに対する、反抗と考察を深めることになりました。
4年間の全日制―定時制―全日制―定時制の高校生活が終わると同時に、人生のスタートを切りました。
人生のスタートを切るに当たって、「命を懸けて自分の人生を生きる―自分の生まれてきたことの意味、その必要、今も生きていることの意味、これからも生きていくことの意味を掴む。
そのためには全力でぶつかり、加減することなく妥協することなく、掴むまで頑張る」という目標をかかげました。
そのためには「いろいろな国、地域、場所でいろいろな職業を経験し、さまざまな人々と出会う必要がある」と考え、「100の地域で100の仕事をしよう」になったのです。
当初は外国に出ようと考えていましたが、国籍の問題、そこから来る政治運動等の問題がネックとなり、海外への脱出は断念しました。
今から35年以上前のことですから、海外へ出るということがそれほど簡単な時代ではありませんでした。
沖縄に行くのでさえ、パスポートが必要な時代です。
北海道を皮切りに、北から南まで10年をかけての修業の旅に出発しました。
その前後を含め、その間には肉体の限界と精神の限界にも挑戦すべく、「睡眠をとらないで何日もつか」・「何も食べないで何日もつか」、をそれぞれ試しもしました。
また、「女断ち」も28才まで続けました。
 しかし、25才のとき、最愛の姉の娘に知的障害があることを知りました。
考え、悩み続けた後、「自分が何とかしなければ」と答えをだしました。
10年間の修業の予定でしたが、5年の途中で終わりました。
僅か5年間ではありましたが、その間各地でいろいろな職業も経験でき、さまざまな人にも出会いました。(結局は、現在95の仕事を90の地域で経験しました)
私にとって以後の人生に大きな影響を与えたのは、この時のまったく、見ず知らずの人々から受けたあまりある親切でした。
「いじめ」がキッカケで「人に対して恨みや仕返し」の気持ちがどんどん高まり、その勢いで高校浪人もし、肉体と精神の限界にも挑戦し、全国放浪の旅にも出ました。しかし、全国各地でさまざまな人の親切にあうことで、その心がだんだん癒され、自分が変わっていくのがわかりました。
そんな頃、知ったのが姪の障害でした。
自分自身のことは短い時間ではありましたが、「命をかけて追い求める」ことが出来ました。
その頃には、「今は姪のために自分が何ができるのかを人生をかけて捜すこと」、と考えることができるようになっていました。
それからは、ただ唯一筋30年間、「障害をもっている姪をどうしたらいいのか。何が一番いい方法なのか」を追及し、さまざまな思考錯誤を繰り返す時間でした。
私は「いじめ」で命を自ら断とうとし、また、放浪中、何度も命を落とすような経験を自ら進んでやってきました。
自分を追いつめ、自分の納得のためには、命までもかけるという思いで生きていました。
しかし、姪はまだ2才。
「自分がしなければ誰がするのか」の思いが強くなり、大きく方向転換することになりました。
それは最愛の姉の子であり、私の姉妹たちの最初の子ということもあったのでしょう。
命をかけても終わらなかった自分の人生。その命を、姪にかけようと心に誓いました。
その思いから、医学の世界に入って早30年。
まだすべてが途中、中途半端な状態です。
その姪も、とっくに30才を過ぎました。
心は焦りながらも、確実に運んでいかないかぎりできない課題です。
姪の「知的障害」から始まり、自分の「いじめ」「差別」も含め、「さまざまな障害、老人問題等弱者に対して自分は何ができるのか」に進んできました。
社会のさまざまな横暴、権力のさまざまな横暴、その他あらゆるところにある、受け入れがたい問題。
その犠牲者になっている弱者。
その弱者から、さらに虐待を受ける弱者。
弱者の中にも、さまざまな弱者の存在。
知れば知るほど、放置できない「問題」
適当には出来ない「問題」、
一人では・・・・少数では・・・・・出来ない「問題」。
お金がなければ出来ない「問題」。
そのさまざまな「問題」をクリアしていかなければ、解決できない大きな「問題」。
日本だけの「問題」ではなく、世界の、また、人類始まって以来の「問題。これからもなくならないであろう「問題」。
誰かがやらなければならない! 問題! 「問題」がいっぱいあります。
じゃあ、誰がやるのか。
気持ちだけではできない「問題」。
手伝いでやるような、「問題」じゃない。
自分のすべてをかけ、人生をかけ、絶対にやり遂げなければならない「問題」。
そんな風に、どんどん変わっていきました。
「何を」「どんなふうにすれば」多くの人の心を掴み、多くの人に訴え、多くの人の賛同が得られるのか。
そんなことをテーマに、約25年この医療の世界で講演やセミナーを行ってきました。
6,000回以上の講演やセミナーを、いろいろなテーマでさまざまな人を対象に、行ってきました。
 そして、ようやく先が見えてきた矢先の、昨年の「2001年アメリカ同時テロ」です。
「同時にさまざまな人が、大勢命を落とす!」
少しでも、早く急がなければ。
私の心は焦りました。
世界の国々が、なぜ争うのか。
その原因や理由も、ひとつです。
私がテーマにした、「問題」と同じです。
私のできることを、できる限り、急いで行うこと。
ようやく30年来の計画を、具体的にするための計画表を作製しました。
10~15年の計画です。
それにのっとり、すべてを進めて行うと考え、2002年6月にゆっくりとスタートしました。
当初は、本格スタートのための計画―それはホームページの作製です。
すべての計画をホームページで具体的にし、同時に多くの人に知らせようと考えました。