ヒューマンエネルギー研究所

第8章 医療を考える

 
その一つが、医療の問題でした。
「これからは、個人個人に対する医療を作り上げていくことが大切」
「大きな声で個別治療の必要性を訴え、多くの人がその必要を理解し、みなでその必要を要求すれば、社会も医療も変わってくるはず」
そんなことを考えて、私は訴えているわけです。
多くの人が「自分にあった自分だけの医療をして欲しい」と望み訴え出せば、行う側も今までのようないい加減なことはできなくなるでしょう。
親が病院、医院の経営者だからといって、裏口入学までして医学部に入り、治療は個人々々みな違う。
それぞれ用の治療法がある。
そんな医療に必要な情報をキャッチするセンサーもない人が、「人の健康や命を左右してしまう」。そんな現状を、もう放置させておくわけにはいかない。
自分の健康、命、家族の健康、命を守るために、「声を大にして叫ぶ時です」
医療を行う人のために、今までもさまざまなテーマで講演やセミナー、合宿も行ってきました。
そして、そんなことをずっと訴えて来ましたが、「そんな波長をキャッチするセンサーをもっていない人」が多く、そんな人には私のいうことはまったく通じてなかったのではないかと思います。
しかし、いろいろな人、グループ、団体を対象に講演やセミナーを行って来ましたが、「医療の波長をもった人は、やはり医療の世界に多くいました」
たぶん、どんな分野もそんな現象なのでしょう。
当然だと思います。
といって、「医療の現場にいる人が、医療の波長をキャッチするセンサーが充分に働いているかどうか」はまちまちです。
医療といっても、いろいろあります。
西洋医学系、東洋医学系。
医科、歯科、鍼灸、指圧、マッサージ、柔道整復、カイロプラクティック、その他さまざまな民間医療。
看護、助産、介護、医療の分野は広いのです。
そのすべての現場で、それぞれに必要な波長があり、その情報をキャッチできるセンサーをもった人がいることが理想です。
しかし、現実は厳しいのです。
「そんな人は、ほとんどいない」のです。
それを、嘆かわしいといってすましていいのでしょうか。
たぶん、違います。
大昔は、そんなセンサーをもっている人が行っていた現場だったのです。
現代は都合で(それは政治や経済)そんな現場がたくさんでき、結果として、「そんな人の存在がないに等しい」ということになってしまっているのです。
それはそれとして、やはりそんな現場で働いている人、本人こそが嘆いているはずです。
「何とかして、そんな能力が身につけばいいのに」と・・・・・
私はそんな人たちのためにも、講演やセミナー・合宿を行ってきました。私はいいます。「どんな分野でもその分野にいる人は、間違いなくその分野の「元からの波長」を受けているからこそ、そこにいるのです」と・・・・・
 外国の学問が進んでいると勘違いし、セミナーや文献を探し回る。
それは、責任放棄です。
病気や症状に対する治療は学問ではなく、基礎医学はもう終わっているのだから、目の前の患者が対象です。
外国も日本もそういう意味では、同じ「今、目の前にいる患者」を相手にしているのです。
研究や努力は外国任せ!
高いお金を出してその成果をもらい受ける―そんなやり方が横行し、当たり前になっています。
こと「人」に対しては、同じ人間が2人といないのですから、「その人」から得なければ「その人」の治療は完了しないはずです。
人の病気やさまざまな症状は「科学」がいう、細胞レベルで考えればすべて解決できると考えますか?
今の医療は、すでに病気やさまざまな症状を持った人が相手です。
そんな患者を相手に、病気や症状を検査し研究する。
その平均値やデーターを臨床に生かそうとするが、それはすでにさまざまな病気や症状として現れたものであり、結果として現れたものを研究・分析しても、それが結果として「治療効果を高めたり、よい治療になる」かといえば、そうじゃないことぐらいはみなも知っています。
「結果を研究し追求すれば効果も高まり、原因を見つけることができる」
それは人に関しては、当てはまらない論理です。
なぜなら病気やさまざまな症状の研究の前に、「人間」の「人たる」がわかっていないのですから。
ましてや、個人「その人」となると、まったくわかってない。
まったく生活の仕方や生き方、考え方、すべてが違う一人ひとり、それでいて、同じような病気や症状を呈する。
結果としての病気や症状を研究すれば、その病気や症状についてはいろいろわかってきます。
一つの病気、症状をとらえて世界中で研究すれば、膨大な資料ができるでしょう。
しかし、それは本末転倒です。
人の病気や症状を治すことが目的なのですから、いや! 「膨大な資料を整理していけば、きっと誰のどんな病気や症状も治せるようになる!」と考えますか。
その「病気」をいくら追及しても、追及しつくすことができるわけはないのです。
病気をするのは人であり、その「人」がわからないでいるのですから、わかってもまたつぎにわからないことが出てくるのは当たり前。その病気を作る、「人」がわからないのですから。
同じ病気であったとしても、診断する者によって違うという事実。
同じ病気でも診断、とらえ方が違うということ。
病気やさまざまな症状によっては、「その人を知る」必要があるものがあります。
それさえも、診る側が替われば変わってしまうのです。
なぜ?
それは診る側も「人」だからであり、それほどまでに「人」は違い、まったく未知な存在だからです。
時々刻々ではなく、秒々刻々と変わっているのです。
人は、ある種の動物や魚のように、環境や状況に対して素早く反応し、反射しています。
そんな反射反応が起こっていることも知らず、教科書や今までの経験だけで向かい合っていると、まったく予想もしない事態になっていきます。
悪くなるのにも、よくなるのにもそれは関わっています。
よほど「人」を知らない限り、むずかしいのです。いやそれ以上に、「その人」を知らない限りまったく対応できないのです。
そんな、「人」に対してどうしたらいいのか、の対応方法も持っていない者が、実際に治療をしているのです。
教育もまったく同じ意味においていえることです。
「治療や教育をどのようにすればいい治療が・・・・・いい教育ができるのか」の前に、「する側の資質が問われているのです。
治療する側も教育する側も共通なのは、「同業者同士が互いにそう思っている」という事です。
他のどの分野よりも、それははっきりしています。
それは、実は「治療も教育もそれほど大切だ」ということを感じているからこそ、互いに厳しい目で相手を見るからなのでしょう。
そして、「自分もこれじゃいけない」と、知っているのでしょう。
しかし、どうしたらいいのかがわからないでいるのです。
それで、ついセミナーに出たり、あるいは外国の文献を探し回ったりするようになる、という事なのでしょう。

 ところで、あの昔の世界各地にいた「天の声を聞く」老人の共通点は、いくつもあります。
それは、彼らは
○医学的な勉強はしていない。
○お金を稼ぐための職業だとは考えていない。
○年配者であること。
○人里から離れた所に住んでいる。
○「相手の元の波長」をキャッチするセンサーが優れている。
○治療は短時間。
○刺激は簡単で軽い。
○自分を決して偉いと思っていない。
○どんな病気、症状に対しても効果を上げることができる。      等々
その時代は今と違い、よほど難しい病気や症状が少なかったのだと思います。
人の病気やさまざまな症状は、先天的なものや遺伝的なものはともかく、原因は当人もしくは身内の者がわかっている場合が多いのです。
しかし、近代に入っての人の生活は、あまりにも昔とは違ってきています。
肉食が多い人はそれなりの機能をもち、菜食の多い人はそれなりの機能が具わっているのですから、肉食が悪いとはいえません。
問題なのは化学の進歩であり、産業の発達にありました。
それは、環境汚染です。
産業革命以後、世界は産業―経済に邁進してきました。
特に20世紀に入ってからのそれは、驚異的です。
しかし、そのつけが回ってきたのは、戦後になってからです。
日本よりは早く産業が盛んになった欧米では、公害の問題はすでにわかっていたことです。
その問題の解決は、「他の下請に出す」でした。
それを、まともにくったのが日本でした。
戦後の復興を喜んでいる間に公害は進み、止まるところをしりませんでした。
しかし、確実に広がり生活のありとあらゆるところに入り込み、気がついた時にはさまざまなこれまでなかった怪奇な病気や症状が蔓延していました。
その被害者のほとんどが、弱い子供や幼児、赤ちゃんたちでした。
それだけに、「社会や経済や政治」は、これらのことを無視してきました。
しかし彼らが成人し、社会に、経済に、政治に、参加するようになって、ようやく社会問題として取り上げられるようになりました。
しかし、まだ経済最優先の途上、政治の圧力でやはり押さえ込まれていました。
しかし、それも米国でさまざまな公害の問題がクローズアップされ、国民の意識がようやく変化してきた頃、例の「環境ホルモン」の問題が出てきました。
タイムリーな出来事でした。
何もかも経済優先でやってきた日本も、米国の動きの影響を受けないはずもなく、ようやくしぶしぶ動き出しました。
もちろん、決して積極的でないことは、見ていてもわかります。
人の命、健康を真剣に考えるのであれば、もっといろいろやることがあるはずです。
しかし、遅遅として進んでいません。
そんなことをしている間に被害を受けた人たちは高齢化し、その数も少なくなっていきます。
それを待っているかのような、政府の対応です。
その人たちが生きている間にこそ、じゅうぶんな対応をするべき問題です。
先を見た政策を考えることもできず、押し流されなかで、さまざまな公害が拡がっていったのです。
その結果として、病気やさまざまな症状。
それまで(つまり医学校で教える教科書にもない)の医学の勉強ではまったく対応できない、という事態にまでになってしまいました。

現実のさまざまな病気や症状の原因に、化学の発達、そして工業への利用、そして化学物質の氾濫があります。
どの化学物質が人体にどんな影響を与えるかなどは、ほとんどといっていいほどわかっていません。
すでに南米国や東南アジア、アフリカも含め、世界中がほとんど同じ状態になり、それら化学物質の影響から逃れることはできなくなっています。
と同時に、300年前にはまったくといっていいほど存在していなかった病気や症状が数えられないほど増えました。
欧米よりはるかにそんな国々のほうが、公害の問題は深刻です。
先進国は自分達の都合の悪いものは、すべて開発途上国へ廻してきました。
そのつけは世界的に存在しています。

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しかし、化学製品は「生産する国だけが被害にあう」という、単純なものではなかったのです。
製品としてでき上がったものを使う側も、その被害を受けていたのです。
それは食品として体内に入り、日用品としても体内に入り、あるいはそれ以外の身の周りの製品と同様に、体内に経皮浸透していったのです。
300年前より病気やさまざまな症状の数は何倍も増えましたが、その原因の多くは化学物質です。
ストレスは、それ以前にも有りました。
ただ、化学物質はストレスに対して敏感です。
同じストレスでも、激しく反応するのです。
「そんな化学物質が原因で起こる病気や症状に対してどうしたらいいか!」など、今の医学を勉強する人たちは習ってはきていません。
ほとんど、無知に等しいのです。
学校教育の場で「化学物質は人体に有害です」と、教えるわけにはいかない現実があるのです。
それなのに、そんな医療者が接する患者のすべてがそんな環境の中で生きている人たちなのです。
医学学校で習っている時には、そんなことまったく前提に勉強してはきていません。
だから現実的には、ほとんど対応できないというのが現状です。
それを知っているだけに、後ろめたい気持ちももっているのでしょう。
しかし、どうすることもできないのです。
「どうしたらいいかを習っていない」のですから。
それなら、「自分達でもっと努力して研究すればいいじゃないか!」
そうなのです。もっと、真摯に取り組むべきなのです。
それを、国民のすべてが望んでいるのですから。
あきらめないで、たとえ少しのヒントであっても取り組んで欲しいのです。
そう、国民は求めています。
どうか「医療を行うすべての人! 真摯に病気、症状の原因を探し出し、どうしたらよくなるのか、どうしたらいいのかを研究して下さい」
昔、世界各地にいたあの老人たちのように、「自分の元の情報をキャッチできるようになり、そして医療者としての波長の上に相手の必要な情報をキャッチし、それを返す」そんな治療のできる人になって欲しいと願っています。