ヒューマンエネルギー研究所

全国放浪、修行の旅をスタート!

 
それでは!と方向転換して、日本全国を放浪しようと決めました。
一年間資金作りのために、いろいろ仕事をしました。
翌年の春、雪解けの東京を後に、バイクで北海道に向かいました。
リュックを左右に一つづつと、スーツケース2つが全財産。19才の春でした。
まだ雪がたっぷり残っている東北を走り、本州の最北端大間を目指しました。
途中、雪道を走ったりの、先行き多難を匂わせる北海道行きでした。
初めて見る北海道。雪の残る北海道。憧れと不安の中で函館に着きました。
函館市内観光を済ませ、大沼から森に向かいました。
途中「あ!そうだ。いつどこで熊に襲われるかも知れないから、サバイバルナイフを買わなければ!」と本気で金物屋さんに入ってそう言いました。
もちろん、笑われてお終いでした。
私の北海道の認識はその程度だったのです。
札幌にたどり着くのに3日かけました。
札幌に着いてからは仕事先を捜すのが最優先です。
ようやく見つけたのが出版物のセールスでした。
道庁や会社を次々に回りましたが、結局は成績も悪く、寮も追い出されることになりました。
この頃の私は、京都から東京へ出て来て3年が経っていましたから、少しは慣れていましたが、札幌の町は、その比ではありませんでした。
それは何かというと、商店の商売のしかたです。
関西では、まず第一にお客さんです。
ところが東京では違っていました。
それになかなか慣れませんでした。
しかし札幌は「売ってやる」なのです。
ほとんどのものが定価買いです。
「少しまけて下さい」と言おうものなら、「売らないよ!何であんたに売らなければならないの!」という感じなのです。
それには歴史的なこともあり、しかたのないことなのだ、と理解するようにしました。
こんなことがあるから、地方へ行くのも楽しくなるのでしょう。
しばらくして札幌を後に旭川に行き、さらに稚内に行きました。
日本最北端の町で生活してみようと考え、仕事を捜しました。
全国放浪を許可する替わり、「お父さんの言うことを一度聞いて欲しい」と父に言われました。
それは、父の友人の経営する京都のパチンコ屋に入って、「釘師の勉強をして欲しい」ということでした。
そのおかげで京都、名古屋、川崎の3つの店で「釘師」の指導を受けました。
その影響があったかなかったかわかりませんが、結局パチンコ屋の「島の中に入っての裏回り」、釘師とはまったく関係のない仕事をすることになりました。その後網走、北見にも住みました。
北見では、パルプ工場の中のプレス工場でプレス工もしました。
一度東京へ戻り、再び北海道に渡った時は札幌に落ち着きました。
札幌では、自動車の整備学校に入学しました。
しかし、資金が続かず途中からタクシーを乗りながらの通学になりました。
結局は卒業できず、東京に戻らなければならなくなりました。
友人もたくさんできましたが、「いつまた北海道に来るか分からない、それまで元気で、じゃ」と言うことで別れ、それ以来会ってない友人の方が多いのです。
私がその後、医療の世界に入っていったのも、また、その後「自分と同じように自分の元―自分の100%幸せの空間を見つける」を人に指導するようになったのも、「人を幸せにできる人を育てよう」と思うようになったのも、北海道や九州―日本全国を放浪している時に、見ず知らずの人たちからの、さまざまな親切にいっぱい出会ったことが、きっかけの一つです。「どこの馬の骨かも知れない人間」に、「なんでこんなことまでしてくれるのだろう―人って!」
何度もそんなことに出会いました。
感動してもしても、し足りないのです。
ほとんどの人が通りすがりの人たちでしたから・・・。
どんな風にその親切に応えればいいのか・・・。
悩みました。ずうっと考えていました。
それがたぶん、今のこんな方向へ向けたのだろうと思います。
また、日本全国を歩く内に、全国にある差別のいろいろも知ることができました。
北はアイヌ問題、南は沖縄の問題(当時はまだ沖縄は本土復帰していませんでした)など。
さまざまな差別に直接、間接的に触れました。自分の体験した差別が、あまりにも大きく感じていましたから、それらの問題に触れた時、最初は妙な感じを受けました。
同じ国民でありながら、同じ日本人でありながら・・・。
しかし、それが差別というものだ、ということが徐々にわかりかけていました。
姉が自殺したり、殺人事件を起こしたり、弟が飛び込み自殺を図ったり、というような話はたくさん聞きました。
差別の問題は、自分だけの問題ではない。
世の中全体に存在しているのだ。
なんとかしなければならない問題の一つ、と考えるようにしました。
東京に戻ってからはいろいろ仕事をしましたが、チャンスがあれば外国に出たいと思っていましたから、車の免許はすべて取っていました。
その免許を生かし、一番大きい車に乗ろうと考えました。
全長20m30tの重機を運ぶ、トレーラーに乗ることにしました。
大型特殊免許も持っていましたから、「何でも来い!」でした。
しかし、しばらく乗っていましたが、近距離が多く少し退屈していました。
そんな時、「鮮魚運搬の長距離トレーラーに乗らないか」と声がかかり、会社を変わりました。
それからの約3年は、命をかけた魚の長距離トレーラーの運転をやるようになりました。
22才の春でした。
この長距離運送の仕事は大変きついものでした。
これについては別の項に載せます。
違反も事故もたくさんやりましたし、友人も数人が事故で死にました。まさに命がけの仕事でした。とうとう大きな人身事故を起こし、それがきっかけで長距離運転の仕事をおりました。