ヒューマンエネルギー研究所

いじめに遭う

 
小学6年生までの私は、それなりに楽しく特別なこともなく成長していました。
一つのことを除いて・・・・・・
 私は生まれながらの痔瘻でした。
左右に一つづつあり、幼い頃から悩まされ続けていました。
小学校に上がってからは、いっそうひどくなりました。
その頃の通知表には、「落ち着きがない」・「椅子にきちんと座らない」・」「動作が鈍い」など、すべて痔瘻が原因で評価されたものばかりでした。
毎朝、大便をした後、登校していました。
その途中で痔瘻が膿み出し、痛さのため歩くことができなくなり、止まっては尻を一旦閉め、それから尻の硬直を少し緩めてまた歩き始め、また止まっては・・・を繰り返しているうちに、姉、妹、友達はみな先に行ってしまい、やっとの思いで学校にたどり着いた時には遅刻。
そんなことを繰り返している間に、勉強にも熱が入らなくなり、授業にもついていけなくなってしまっていました。
そんなことは両親、姉妹、先生にも言えず、一人辛い思いをしていました。
それでも登校拒否もせず、快活な少年でした。

●いじめに遭う
そんな少年が転校と同時に「いじめ」に遭いました。
それは激しいものでした。
道を歩いていても、自転車でぶつかってくるぐらいですから、学校ではもっとひどい目に遭いました。
私は体力もありましたから、いつも相手は数人です。
2、3人の時には、それほどはっきりとしたものではないのですが、仲間が多勢集まると露骨になっていました。
担任の女教師までが、同じような振る舞いでした。
 それは高校進学が決まり、小学校卒業後3年して挨拶に学校へ行った時のことです。
職員室には在席ではなかったので、同僚が先生を迎えに行ってくれましたが、なかなか戻って来ませんでした。
ようやく戻ってきた時のその顔は、顔面蒼白で恐怖にひきつっていました。
「あなたたちは何者なんですか!」他の教師たちも、突然のことでこちらを見ていました。
「いえ、高校進学が決まったので、先生に挨拶をしようと思って来ました」
最後まで言い終わらないうちに、「帰ってください!」と言われてしまいました。
その時確信しました。

●担任の冷たい仕打ち
痔の為、歩くのにも不自由な状態だったので、「体育を休ませて下さい」と先生に前もって届けました。
ところが、体育が始まると「どうしたんですか!トレパンを忘れたんですネ。ズボンを脱いで、パンツ一枚でそこに立っていなさい!」
氷のように冷たい言葉でした。
運動場の入口で、他の先生や生徒達も通ったりする通路でした。
白いパンツの後ろは、痔の出血で赤くにじんでいました。
「伊東のパンツに血がついてらー、生理が始まったんだー、男のくせにー」
口々にはやし立てました。
担任は、そんな騒ぎをまったく無視していました。
はやしたてる連中に、注意して欲しいと哀願するような眼で見ても、やはり無視するだけでした。
それだけではなく、「パンツのままでいいですから、そのまま皆と一緒に参加しなさい!」と言われた時には、顔から血が吹き出しそうになりました。
感受性の強い盛りです。
女生徒も一緒のサッカーです。 
なんとかして休みたいと思うのですが、先生の眼はそれを許してくれそうにもありませんでした。
女生徒の多くはいつもそうでしたが、同情的でした。
それが、一層恥ずかしい思いを高めていました。
走ることなどとうていできる状態ではありませんでした。
しかし、サッカーです。走らなければなりません。
走りたくとも、走れないのです。
両方の尻が硬直して、脚を前に送り出せないのです。
出血はしている、痛い、泣き出しそうな気持ちでした。
そうしている内に足がもつれ、前につんのめりました。
ここぞとばかりに悪ガキが、私の上にのしかかってきたのです。
3人、5人、6人、ボキッ!はっきりと音が聞こえました。
それでも7人、8人・・・もう後は駄目でした。
動けなくなりしばらくそのままでした。
「何しているんですか!早く立って走りなさい!」
2、3度遠くから聞こえましたが、動けませんでした。
と!すぐそばで「早く立ちなさい!」顔を真っ赤にしてその担任は言いました。
ようやく立ち上がりましたが、やはり走ることはできませんでした。
びっこを引きながら、運動場の脇で座り込んでしまいました。
その後、どうやって教室に戻ったか憶えていません。
右足首が腫れ上がっていました。
その後の授業中も、痔の痛みと足の痛みをこらえていました。
下校の時は、友人が肩を貸してくれ、ようやく家にたどり着きました。
親には話せず、痛みを我慢していました。
両親に話せば、きっと学校へ怒鳴り込むだろうことはわかっていましたから・・・・・・
次の日も、次の日も、我慢して学校へ行きました。
両親には適当に言っていました。
しかし、3ヶ月も同じようにしている私を見て、ようやくおかしいと思うようになったのでしょう。
父がほねつぎへ連れて行ってくれました。
「あ、これは手遅れです。もう治らないでしょう」と言われました。
実に、その通りでした。
55歳になった今も、右脚は小学6年の時の太さのままであり、足の大きさもその時のままです。ほとんど成長しなかったようです。
 その後、柔道を始め、オリンピックを目指そうと思ったこともありましたが、右脚は利き脚です。
途中、挫折してしまいました。
それでも柔道は20歳過ぎまでやっていました。
空手も20歳を過ぎて始めましたが、やはり挫折してしまいました。
中学の頃はまだしも、誤魔化しながらも陸上部と体操部の主将も務めることはできました。
これは、私が医療や治療に興味を持つようになる、最初のキッカケでもありました。

●どうしていじめに遭ったのか
なんで私がそれほどまでに、「いじめ」に遭わなければならなかったのか。
 私の両親は、韓国から戦時中日本にやって来ました。
父は大学に入るために、日本にやって来たのです。
苦労しながら大学に通ったと聞いています。
 そうしている間に、日本が戦争に負け、社会が大きく変わりました。
そんな時、そんな2人の間に姉が生まれ、1歳半違いで私が次に生まれました。
私の後には、妹が2人生まれました。
私達は4人きょうだい、みな、戦後生まれです。
戦争のことは何一つ知りません。
両親は4人の子供をかかえ、大変だったと思います。
その当時の家族構成は、両親と子供3~6人というのが、日本の一般的な家族構成でした。
そして、どの家族もみんな大変だったと思います。
そんな、大変な時代の中で私は小学校に上り、5年生までを京都の南の方で育ちました。
 京都市の南は下町で、下町特有の良さがある所です。
小学6年の時、私の家は北の方へ引っ越しました。
父が頑張ったお陰なのでしょう。
一戸建ての大きな家でした。
近所の中では一番大きな家でした。
左大文字が目の前にあり、その間に金閣寺がありました。
中学生の頃まで、金閣寺は無料で中に入るのも自由でした。
だからその頃は、自分の家の庭だと思っていたものです。
 私は子供の頃から、(今もそうですが)愛想のいい少年でした。
自宅は、飲料水の商売をしていました。
京都一の牛乳屋さんでした。
夏になれば風物詩として、「店先にこれほど多くの牛乳箱が並ぶ」という記事が京都新聞にも載るくらいでした。
私は引越し後、間もなくして、牛乳配達を任されるようになりました。
朝5時に起きての牛乳配達は、小学6年生の私にとってはきついものでした。
京都の冬は、けっこう雪が降るのです。
京都の街は、北から南へずっと坂になっています。
牛乳ビンをたっぷり積んだ自転車は、けっこう重いのです。
まる坊主の自転車のタイヤでは、雪道でころぶことも何度もありました。
その度にケガをするのです。
雪の降る中で起き上がれず、30分以上も動けないこともありました。
それでも、愛想のいい少年でした。
夏になれば隣近所の家の前の道路に水をまき、ごみをほうきで掃き、道を行き来する人には「お早うございます。今日は」と挨拶する少年でした。
近所では人気者でした。
 そんな時、新聞に「韓国から密航し、パチンコ店に勤め隠れていた〇〇〇を逮捕した」という記事が、その人の親族の住所と共に載りました。
それが、私の家だったのです。
それは、またたく間に広がりました。
町内はもちろん、方々に広がり、私のクラス中にも広がりました。
町内の大人たちが、数人ずつ輪になり、何やらこちらを見て話していることがしばしばありました。
そんなことが日常的になっていきました。
そのことがきっかけに、町内にいるクラスメイトや悪ガキ共が、「待ってました!」とばかりに、私への「いじめ」が始まりました。
町内を一人で歩けば、バットを持って追いかけてくる。
自転車に乗っているのを見れば、皆で振り回す。
そんな毎日でした。 
そうしている間に、卒業記念の「京都観光」に学年全員で行くことになりました。
京都御所に行った時のことです。
友人とブランコに乗っていました。
そこへ例の悪ガキ共がやってきました。
相手にしないよう無視していました。
すると、その内の一人が、私の乗っているブランコを無理やり止め、もみ合いになりました。
他の連中もそれに加わりました。
そして、ブランコの座るところの四角い角材で、顔を殴られました。
目の前を、白いものが二つ飛び出していくのが見えました。
唇で上の前歯を探ったところ、無いのです。
有るはずの前歯がなくなっているのです。
神経もむき出しになっているのでしょう。
痛くて触ることもできません。
見る見る上唇が腫れてきました。
下唇でその腫れを隠そうと、覆い被せようとするのですが、隠し切れません。
「伊東の口出っ張ってらー」・「みっともなー」とはやし立てるのです。
見る見る顔は腫れ上り、唇も腫れ上り、口から血が出ているのです。
誰が見ても変です。
担任はそれを見て知らんぷりでした。
そんなことも、もうすっかり慣れっこになっていましたから、ぜんぜん平気でした。
ただ、「伊東の口、出っぱってらー」は、私の心に何かを残したようです。
今でも昨日のことのようにその声が聞こえます。

●歯科医師とのつき合い―セミナー
私は、小学5年生まで虫歯もなく表彰されていました。
しかし、これを境にそれからずっと20年以上歯のことで悩まされ続けました。
35歳の時、歯ぐきの手術(インプラント)を受けるまで、歯医者との付き合いが続きました。
そのおかげで、その後歯医者さんとのつき合いが、形を変えて始まるとは考えてもいませんでした。
手術を受けた数年後には、歯科医師を対象にセミナーや講演を開くようになりました。
それは1989年、私が42歳の時、日本テレビの「タケシのスーパージョッキー」に出演したのがキッカケでした。
 ダンカン氏が、2ヶ月前から顎関節症で口が指2本分しか開かなくなった(開口障害)のです。何ヶ所かの歯科医院に行ってみたが、やはりよくならないと言うのです。
それを、私は一瞬にして良くしたのです。
まったくのブッツケ本番の番組ですから、どうなるかは、局の方も私の方もまったく予測することができませんでした。しかし、うまくいきました。
施術した直後、彼の口は指4本分が軽く入るようになり、拳も軽く入るような感じでした。
どのようにしたか・・・・・・
私はダンカン氏の身体には一切触れていませんでした。
第三者(佐竹チョイナ氏)の身体の一部に刺激を加えただけでした。
これを、「第三者の筋肉反射による空間療法」と呼んでいます。
その番組では、それ以外にも幾つかを披露しました。
骨格模型に刺激をして、ラッキョ氏の永年の関節障害を治療したり、文字や色紙を見せることで症状を良くしたりもしました。
この時のビデオは内容を充実させて、「空間療法」というタイトルで保管してあります。
また、「筋肉はあなたのすべてを知っている」・「気オロジーとワンショット療法」の2冊の拙著にも詳しく書いてあります。
たまたまこの番組を見た全国の医療関係者から、「自分達にも先生と同じようなことができますか?」と問い合わせがあり、「それは充分可能です」と応えると「では、自分たちに先生の技術を指導していただけますか?」「いいですヨ」と言うことで話はトントンと進み、医師や歯科医師、カイロプラクター、鍼灸師その他、いろいろな医療関係者対象の講演の企画が始まりました。
全国各地の歯科医師や歯科医師会からも要請を受け、セミナーや講演を行うようにもなりました。
歯科医師を対象にしたセミナーや講演、合宿セミナー、個人セミナー、歯科衛生士、歯科技工士、歯科医院のスタッフ、歯科医師の奥さん、子供、さまざまな人を対象にいろいろな企画で関わりました。
約10年の間に約600回行いました。(別の項で詳しく載せます)
何が縁になるかわかったものではありません。

●入水自殺を図る
話を元に戻します。
小学6年生のいじめ以降、私はますます落ち込みました。
学校に行くのもいやになり、人に会うのも、外に出るのもいやになりました。
まだ冬の寒い日でした。私はびわ湖にいました。
まだ唇の腫れは完全に引いてはいませんでした。
その寒いびわ湖に私は入っていったのです。
「入水自殺」を図ったのです。
胸ぐらいの深さまで来ました。
本当にそうなんです。走馬燈のように、それまでの私の過去のいろいろなことが流れていくのです。
「来たんだ!ついに来たんだ!」と思いました。
私の死ぬ時が来たんだ!
足を蹴る瞬間でした。
母と父と姉妹の顔が突然現れました。
一瞬で我に返りました。
水を飲みながらも急いで岸に戻りました。
岸に戻ってすぐに服を脱いでしぼりました。
興奮していたのでしょう。
それほど寒さも感じませんでした。
走りました。走って、走って、走りました。
体を温めることと服をかわかす為に、走りました。
家に着いた頃は夕暮れになっていました。
風邪をひくこともなく、たどり着きました。
 私が死のうと思ったのはこれだけではありませんでした。
もう一回あります。
それはばかげているのでここでは触れません。
その内機会あれば、ばかげた死に方を考えたことも話せるかも知れません。

●戦時中、日本軍のしたことを知る
そんな私に、大きく人生を変える出来事が起こりました。
地元の中学校(衣笠小学校-衣笠中学校)の入学式に出て帰って来た私を、両親は待ち構えていました。
「すぐにそのまま出かけよう!」とうながされ、帰ってきたそのままの格好で父の運転する車に乗り、北大路を東に向かいました。
今まで行ったこともない所です。
大文字(右)山がすぐ側に見えました。
「ここが明日から通う中学校だよ」と言われました。
どう見ても幼稚園か保育園のような建物でした。
「なんでこんな所に通わなくてはならないの!」
「なんでもいいからここに通うように!」
強引な命令調で言われました。
衣笠中学校の教科書もすでに持っていたのに、翌日からこのへんてこな学校に通うようになりました。
それが私の人生を変えることになった、「韓国中学校」でした。
すでにクラスが決まっていました。
私の学年は創立以来(16年)初めての2クラス編成でした。
それ以後も2クラス編成はこの学年だけでした。
約100名の同級生です。
それだけではありません。
みんな、同胞なのです。
みんな、同じ国の人間なのです。
女も男も、みんな同じ国の人間なんて考えてことがなかった。
そんなことがあるんだ!
それは大きな感激でした。
最初は計り知れない戸惑いから始まり、間もなく大きな感激に変わっていきました。
 一学期も瞬く間に過ぎようとしていました。
その頃はバレーボール部に入っていました。
夏休みが始まり、部活で学校に来ていました。
その日は適当にサボリながらやっていました。
そんなとき一つの倉庫を見つけました。
一人でその中に入ってみました。
本や写真がいっぱい有りました。そして釘付けになりました。
白熱灯をつけ、そこにあった資料を読みあさりました。
戦時中、日本軍が中国や韓国で行った行為が、写真や資料として整理されていました。
それから何時間経ったのか、そこを出た時はもう学校には誰もいませんでした。
そして、私自身がすっかり変わっていました。
自分では想像もつかないほどに、その時変わっていたのでした。
それは時間がたつに従って、はっきりと分かるようになりました。
姉が、妹が、ものすごくいとおしいのです。
父や母に対して、心の底から感謝する気持ちが沸いてくるのです。
クラスメートが、先生たちが、学校が、いとおしいのです。
それはみな、自分と同じ祖国を持った同胞たちなのです。
自分と同じ運命を持った仲間たちなのです。
「こんな自分でも、何かできることがあるだろうか?」
「こんないとおしいみんなのために、何かできることがあるだろうか」
「何かしなければ。あの写真で見た人たちは、自分の先祖、先輩たち、親戚の人たちなんだ。
そんな人たちがたくさん犠牲になっていった。自分はそのおかげで今生きていられる。
何かしなけば、きっと何かしなければ」
「自分の一生かけてでも国の、みんなの、ために何かしなければ」
そんなことで頭がいっぱいになっている日が続いていました。
なんであんな「いじめ」に遭ったのか、本当はよく分かりませんでした。
しかし、ようやく自分なりにその意味がわかりかけていました。
「私は、絶対に幸せにならなければならない。
多くの同胞が、自分たちのために死んでいった。
自分が幸せになることが、その人たちに対してのお礼なんだ―絶対に幸せにならなければ・・・・・・」
まだ自分の国を見たこともない。
両親の生まれ育った国。
本当にそんな国があるのだろうか。
日本に生まれ育った自分なのに、頭の中に別の国がある。
見たこともないのに自分の国と思わなければならない。
そしてきっとあるんだと思い込むよう、努力している。
そんな自分が少し前まで“朝鮮人”と言っていじめられた。
見たこともない国の、見たこともない両親の祖父母と同世代の人たちの犠牲の上に自分は生まれ、生きている。
そんな自分が「不幸」に生きていけるはずがない。
何かが違っている。
何かが間違っている。
それからです。私が幸せを求め出したのは。
私の「幸せになるために生まれた」を掴むための人生のスタートを切ったのは。