ヒューマンエネルギー研究所

肉体と精神と限界への挑戦

 
大切な中学時代も、高校受験の波にかき回されてる間に終ってしまった。
すっかり中学校が、高校受験のための予備校化していることに、大きな疑問を持っていました。
中3になると、とたんに受験、受験と尻をたたかれ、左も右も脇目を振ることさえ許されなくなった。
中学生は、一番感受性の強い時期。もっと大事なことがある。社会の都合で作られた教育システムに巻き込まれ、一人ひとりの人間性はまったくの無視。
それは小学校、いや幼稚園や保育園の時にすでにそうだった。
一人ひとりの個性や人間性などまったく関係がない。
家庭では、個性対個性のぶつかり合いをしているのに、皆が集まる所では、その個性を無視され、同一化され、全体化されていく。
何のために。
そんなことを、毎日考える日々が続いていました。
そんな状態ですから、受験勉強に熱が入らないのも当然だったかもしれません。
周囲の友人が一生懸命勉強する中で、「こんな生活を相手に託せば自分放棄になってしまう」このまま受け入れるわけにはいかない。1年間自分を放棄し、相手のいいなりになるということは、たぶん5年~10年は自分らしく、主体的に生きることなんかできなくなるのではないか!どうして、そんなことを受け入れられるというのか・・・」
抵抗と反抗の反旗をひるがえしたのは、私だけでした。
(この時の孤独な戦いをしているという思いは、その後の人生でだびたび経験することになった)
そんなことを考えている間に受験日になり、案の定、落ちてしまいました。
京都の場合は、私立よりは公立が優秀という風土です。

公立に落ちれば、どこか私立を捜そうという場合が多いのです。
私もそれにもれず、私立を捜すことになり、ようやくひっかかりました。
しかしその高校も一学期でやめてしましました。
それは、私は進学クラスに編入されていましたし、担任にも恵まれていましたから、どこか安心していたのかもしれません。
6月末頃になると、創氏改名の指令が出ました。
私は本名の「金 聖鎬」を使っていました。それを、「日本名に替えろ」というのです。
それをきっかけに、また、学校、教育というものに対して、抵抗、反抗の日々が続くことになりました。
けっきょくは強引な方法で、強制的に改名させられるようになりましたが、私は最後まで頭を縦に振りませんでした。
夏休みと同時に、退学することにしました。
そんな私が京都を出、上京したのはケネディ大統領が暗殺された翌日でした。
京都駅まで両親が車で送ってくれました。
その時、初めて号外というものを見ました。
私は30kgの鉄の塊(バーベル)と、受験用の参考書を入れた段ボール箱と、10kgの鉄の棒(シャフト)を左右に持っていました。
小学6年生の時から始めたボディビルの器具を、この時から私は手元から離さず、持ち回って、今も手元にあります。
父は別れ際に、「駄目だったら家に帰って来いヨ!」と言いました。
私は、この言葉を父との最後の別れと心に決めました。
男、人生をかけ、「生きていく意味を掴みたい」と思い、家を出ていくのに「駄目だったら帰って来いヨ!」では「ヨーシ、やるで!」ということにはならない。
「駄目だったら死んで来いヨ!」と励まして欲しかった。
その後の人生を考えた時、この時の一言が、やはり父との別れになった気がしています。

あれほど嫌だった受験勉強を、またしなければならなくなりました。
けっきょく、高校浪人をやることになりました。
春までやっていた受験勉強を、寒い叔父の、志木のからっ風の吹き抜けるアパートの一室で、再びやることになりました。
ラジオから「ワシントン広場の夜は更けて」・「北京の55回」・「思い出のサンフランシスコ」を聞きながら・・・
決して本を読んだりするのは嫌いではないが、受験勉強のための勉強と考えると、どうしても抵抗してしまうのです。
しかし、この受験勉強も報われませんでした。
結局は、明大中野高校の定時制に入ることになりました。
一年後、全日制に替わることになりましたが、この間のいろいろな出来事については、別の項に載せます。(この時代も、たぶん今も15、6才の純真な心を踏みにじる、学校経営のいろいろなことが行われている)
ようやく一年遅れで、昼間部の高校2年に戻ってこれました。
替わった最初の頃はやる気もあり、進学クラスの1組にも入っていましたから、頑張りました。
1学期は秀才連中との付き合いが多く、自然と真面目に勉強しました。
しかし、やっぱり変です。中学や高校といえば最も感受性の高い時期であり、人生について社会について友情・恋愛・大学・仕事、その他のいろいろなことについて議論しあう時のはず。それがまったくない学校生活。同級生はこんなに大勢いるのに議論しあってる人間がいない。
自分の考えた学校生活とは、かなりかけ離れている。
特に受験に向けて頑張っている連中は、何の疑問もないのか、まったく議論しあっている所を見たこともありませんでした。
ただ一筋、大学進学しかないのです。
そのための高校であり、大学だけが目的。
それは違っている。―間違いなく違っている。
クラスの中にはあまり勉強に熱心ではなく、むしろ「今を生きている」という感じの連中もいました。
しかし、彼らの方がはるかに人間的でした。
友人のことを心配し、考え、人生についても真面目に考えていました。
一学期を終わった頃から、そんな連中とも付き合い始めました。
二学期中はそんな連中との付き合いでした。
京都出身の私には、考えられないようなことがたくさんありました。
これも別の項に載せます。
私は小学校でいじめに遭い、自殺まで考えた人間ですから「今、いまを大事に生きなければ」といういう気持ちが人一倍強かったのでしょう。
今50才を過ぎて考えれば、3ヶ月や半年なんか、すぐに過ぎてしまうものなのに、その頃の1ヶ月は長く、1週間が今の1ヶ月位の感じがしていたような気がします。
もうすでにこの頃には、「自分の求めていたものは、大学にはない。それであれば、何も大学の予備校化した高校なんか行く必要はないな」と考えるようになっていました。
そんな頃に三学期を迎えました。
三学期の初日から、無断で机の横に正座を始めました。
何度か注意されましたが、私は続けました。
2週間もたてば、どの授業の時でも正座するようになっていました。その内、教室内の後ろの方で正座するようになり、次いで教壇の上で、教室の入り口で正座するようになるまでに、1ヶ月もかかりませんでした。「けったいな奴だなー」だんだん先生方も意識するようになっていました。
そしてまだエスカレートし、職員室の入り口で正座するようになり、ついには職員室の中に入り、担任の横で一日中正座するようになりました。
これを三学期中やりました。
さすがに皆から呆れ返られました。
何度も注意されましたが、「私の考える所があり、どうかやらして下さい」けっきょくは放置されることになりました。
当然、授業にはまったく出席していませんでしたから、学年末試験は答えの替わりに、表裏両面に人生問題や疑問を書きました。
全教科です。
もちろん、採点の対象にはならず、0点ばかりでした。
ところが2人の先生が100点をつけてくれました。
その一人が私の担任でした。
立派な先生だったと記憶しています(帆刈先生)。
そして心に決めていたことを、先生に相談したのです。
「定時制に行かせて下さい」「バシー!」一発平手打ちをくらいました。
「どんなに苦労して全日制に入ってきたのか、もう忘れたのか!」
少したじろぎましたが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「今の大学に行っても私の学ぶものはありません。少しでも早く社会に出て、社会を大学と思って一生懸命勉強します!」叫ぶように言ました。
ようやく先生も受け入れてくれました。
その時の先生の目に、涙があったのを今も憶えています。
先生のおかげで、定時制の4年に編入することができました。
出席日数が足らなかったのですが・・・感謝しています。
担任の先生には、わかってもらったのですが、両親に分かってもらうのは並大抵ではありませんでした。高校浪人のあげく、ようやく高校に入ったと思ったら、途中でこの問題。それでも私の強情さが勝ったのでしょう。
すでに政治運動(在中韓日人の生活や権利を守るための)にも参加していましたから、「ストやデモばかりやっている今の大学へ行っても、麻雀か女遊びを覚えるだけ。そんなものを勉強したいわけじゃない。大事なこの時期を、くだらないことのために時間を過ごしたくない。もっと今、自分のすることがある。どうせ大学を卒業しても在日韓国人は就職先がないんだから」もう両親は何も言いませんでした。
再び定時制に移ってからも、いろいろなことがありました。
私の選択は誤ってはいませんでした。
その辺りについては別の項に載せます。
ようやく、いろいろなことがあった高校生活も終わろうとしていました。
ますます自分の求める答えが、大学にあるとは思えなくなっていました。
少しでも早く社会に出て、自分の求める答を得たいと考えるようになっていました。
ちょうどこの頃は、定時制に通いながら、朝5:30から牛乳配達。その後トビ職の仕事、終わってから学校へ行き、その後夜9:30から三鷹にあったメキシコ料理店のボーイを朝3:00まで、3:00から4:30までボディビルをやり、その足で牛乳配達、というようにまったく寝る時間を取らない生活を始めたのです。
高校を卒業すればすぐに外国に出よう。
そう考えていましたから、精神的にも、肉体的にも、鍛える必要があると思ったのです。
人間は、どれだけ寝ないでもつものなのか試しておきたかったのです。
1週間が過ぎた頃、こんなことがありました。
レストランでは12時頃に夜食が出ていました。
その日も、夜食をいただくために厨房に入りました。
味噌汁もついていました。
私は突然、琵琶湖で溺れているのです。
もう駄目か!と思った瞬間目が覚めました。
私は、味噌汁のおわんの中に鼻を突っ込んでいたようです。
「お前バカか!何やってんだー」怒鳴られました。
10日も過ぎた頃、ハンバーグが夜食に出ました。
どうもおかしいのです。腐っているのです。ハンバーグが。
「このハンバーグ腐っている」本心はかなり頭にきていましたから、かなり大きめの声で言いました。
「なに!腐っている?」 「腐っている!こんなもの食えない!」
こんな応酬がありました。
「どうれ!見せてみろ!・・・腐ってないじゃないか!バカやろう!」
一瞬、ム!としましたが、その時気付きました。
数日前、現場で指をケガしていました。
それがなかなか治らないでいたのです。
その部分が腐り出していたのです。
初めて知りました。睡眠を取らないでいると再生力が低下するのだ、ということを。
その後も続けていましたから、指のケガは腐ったままです。
結局、その時のケガの跡は長い間残っていました。
13日目のトレーニングの跡、仮眠室で横になったのは憶えていましたが、丸2日そのまま寝込んでいたとは考えもしませんでした。
その時のチーフが、自衛隊出身者だということもあり、私のすることを見守ってくれていました。「よく頑張った!」と一言、言われました。
13日間しか持たないのか!
私にとってはがっかりする結果でした。
1日を置いて再び挑戦しました。
どうしたことか、結果は同じ13日目でダウンしました。
「自分は29日間で26日の徹夜しかできないのか!」それは大きな落胆でした。

その後、何も食べないで何日持つかも試してみました。
私は、少しでもお腹がすくと、頭がおかしくなったのではないかと思う程影響が大きいのです。
それでも、どうしても試してみたかったことの一つでした。
その結果、「17日間」でした。
私が20才前に試した、肉体と精神の限界の挑戦でした。

外国に出れば、その先は運任せと考え、カナダ大使館に行きました。また、オーストラリア大使館にも行きましたが、韓国の軍事政策に反対する政治運動も行っていましたから、パスポートの申請に制約を受けることになりました。
結局外国に行くことは諦めました。