ヒューマンエネルギー研究所
第10章 天然の美しさとは?
ところで、「天然の美しさ」とは何かをあなたは知っていますか。
「天然の美しさ」って、わかりますか?
たとえば
○知人が亡くなったときに、同席した人から「どう見ても笑っている顔だよ」と、いわれるのは心外でしょう。
○友人にバカにされているのに、「笑っているのよ」といわれ、ますますバカにされる。
○赤ちゃんをあやそうとして抱き上げたら、赤ちゃんが泣き出してしまった。
その母親の友人から、「どうしたの何を怒っているの」といわれてしまった。
○友人から男友達を紹介され、彼と意気投合しつき合う約束をした後、その友人から
「あまり気に入らなかった?」
「どうして?」
「余りうれしそうな顔をしてなかったから、彼も心配してた」といわれた。
○上司に誉められ時、「どうしたの何か不満なのか」といわれてしまった。
○会社の会議でだいたい思い通り運んだのでホットしていると、
「どうしたの浮かない顔して、どこかまずかったの」といわれた。
○ 結婚式の席で、「どうしたの何か心配事?」
「なにいってんのよ今日は私の結婚式よ、嬉しくないわけないじゃない」
「そう、何か不安があるような顔している」
以上のような経験をしたり、話を聞いたりしたことがありますか
「嬉しい時」に、「怒っているような顔」に見られたり
「悲しい時」に、「嬉しいような顔」に見られたり
「納得している」のに、「うかない顔」に見られたり
「怒っている」のに、「普通の顔」に見られたり
「ホットしている」のに、」「うかない顔」に見られたり
「満足している」のに、「不満顔」に見られたり
何でこんなことが起こるのでしょう。
顔の表情は、すべて顔にある表情筋によって作られます。
このように、顔の筋肉が緊張することで表情は作られるのです。
だからその筋肉が緊張しないと、その表情は作られないのです。
「天然の美人」はさまざまな情況に対して、「その状況にあった表情ができる」からそういわれるのです。
みなが悲しんでいる時に、笑っているのか悲しんでいるのかよくわからないように見られては、「バカ」に見えても「美人」には見えません。
怒ってもいい時に、「普通の顔―表情がない」に見られても、人は「バカ」にします。
「あまり表情がはっきりしない」では、「天然の美人」ということができません。
メリハリがなくて、「豊かな表情」とはいいません。
「天然の美人」の条件は、表情にメリハリがあることです。
ぬうぼうとしていて、「天然の美人」といわれることはありません。
「メリハリ」や「豊か」な表情は、どうしてできるのでしょう。
それは、その情況々々に合った表情筋が、じゅうぶんに発達していることです。
その上で、その情況々々にあった感情を、もっていることです。
また、情況々々にあった感情に、思い切りメリハリがあれば、その情況にあった表情筋も発達していきます。
しかし、昔から「日本人は表情がない」といわれています。
それは、その裏返しに日本文化があります。
日本文化は、押し殺した白と黒の墨絵のようなもの、といわれることもあるとおり、感情を押し殺してきた面があリます。
「感情を押し殺す」とは、「表情筋の発達を抑える」ということになります。
日本文化、日本の生活の中に、「感情を押さえる」ということがあるのです。
その結果が、「日本人は表情がない」
と同時に、「日本人はおとなしい」になっているのです。
自分に不利な条件で約束をしたにもかかわらず、まったく不満の顔をしない。
相手は「納得したのだ」、と受け取られても、しかたのないことです。
そんなことが日常茶飯事、会社の取引や国際政治の場でも起こっていることです。
それで、不満がなければいいのですが。
その後、不満や不平を口にしても、後の祭りです。
誰も、相手にしてくれません。
交渉の段階で、「表情同士の駆け引き」が始まっているのです。
何も、交渉事と限る必要はありません。
日常のすべてに、それはいえることです。
「腹の探り合い」
「日本人はよくわからない」といわれるが、同時に「できる」とも思われています。
それは日本人は「相手の表情を見て判断するが、自分の感情は出さない」からです。
感情は、表情に出ます。
しかし、感情を押し殺すことをしてきている人は、表情筋の発達がなく、平坦な顔しかできません。
外国では、感情を抑えるというような文化も、考え方も、もってない国がたくさんあります。
そんな国から見れば、「なんともわけのわからない国民」と映るのでしょう。
けっきょく「日本人は本当の感情(腹)と表の顔(表情)が違う」、といわれるようになってしまうのです。
最近は、少し変わってきたように思います。
しかし、変わってきたといっても「若い人が」です。
50代以上の人たちは、やはり昔の日本文化を受け継いでいます。
どこか感情を抑えてしまっています。
彼らさえ若い時はもう少し感情を表に出していたのですが、歳とともに押し殺すようになってきたのでしょう。
それが文化なのです。
しかし、それさえ少しづつ変わってきているのです。
今の30代~50代の人は、中学~高校生ぐらいで自己主張のピークを迎えます。そして、社会人になる20歳頃にはおさまり、25歳頃までだんだんに下がります。その後はゆっくりと下がっていきます。
そして、50歳頃には、ようやく分別のわかる年頃になります。
それよりも早く生まれた80代の人は、戦前戦中を生きてきた人たちです。
自己主張のさかりを戦前戦中に迎え、よほど自己主張もできずに戦後を迎えました。
戦後になってから自己主張のさかりを迎えたのは、今の70代でした。
今の60代の人は満を持して自己主張を始めました。
80~50代の人の自己主張も、50歳に近づくに従っておとなしくなってきましたが、40代以下、そして今の20歳以下は、中学生ごろからそのままずーっと続けていくように思えます。今の20代の人が、80歳を向かえる頃には、日本中が自己主張をする人ばかりの社会になるでしょう。
後5、60年もたてば国中が今の外国と同じように感情と表情が一致するようになるでしょう。
「自分の感情を押し殺す必要がなくなった世代の台頭」です。
ではその頃には、「天然の美人」が多くなるでしょうか。
それは、少し違います。
「豊かな感情」が必要なのですから
「自分の感情をストレートに表現する」と、「豊かな感情」は違います。
たとえストレートに表現しようが、感情が豊かではないのですから。
大切なのは、「豊かな感情」なのです。
昔の人は「押し殺してはいても、感情は豊かだった」のです。
どうしてでしょう。
感情は、人とのコミュニケーションのなかで育つものです。
相手の境遇を聞くこと、知ることで、一喜一憂してしまいます。
それを繰り返すと同時に、自分の境遇についてもわかってきます。
それを何年にも渡り繰り返すことで、情況にあった感情ができあがってきます。
と同時に、押し殺すことをしなければ、表情も感情にあわせて作りあげられます。
しかし最近は、コミュニケーション不足です。
人の境遇にも興味がないし、まして他人と話すことなどしたくない。
ますます孤立状況です。
そんななかでは、豊かな感情は育ちません。
そうなってくると、「どんな時にどんな顔をすればいいのか、それがわからない」という人が増えてくるのです。
すると、「情況にあわせた表情の作り方教室」のようなものが登場するようになります。
そして、繁盛するようになります。
しかし、それは変です。
「その情況にあわせた顔になっているが、感情がない」
「何を考えているのかわからない」といわれるようになります。
「豊かな表情や天然の美人」は、豊かな感情から生まれるものです。
大切なのは、「豊かな感情を育てることです」
子供の時に一度憶えれば、老化するまで憶えているのです。
どんなスポーツも、歳を重ねてからでは難しいのです。
若ければ若いほどいいといわれるのは、そのせいです。
決して、スポーツだけではありません。
表情も、同じなのです。
若い時に苦労ばかりしてきた人にとっては、喜びの顔を作るのは苦手です。
いつも怒っている人は、若い時からそんな環境にいた人が多いのです。
若い時に鍛えられた筋肉は、歳を重ねても衰えないのです。
「衰えてもいい筋肉もある」、というわけです。
逆に「発達して欲しい筋肉は、子供の時に鍛えておかなければならない」ということです。
とはいっても、「すでに手遅れ」という人はどうしだらいいのでしょう。
それは先にもいいましたように、コミュニケーションです。
しかし、「人とのコミュニケーションが苦手」という人はどうしたらいいでしょう。
そんな人のための場は、けっこうあちこちにあります。
「お笑いの席」も、そうです。
「映画や演劇」も、そうです。
子供や幼児、赤ちゃんと関わるのもいいでしょう。
老人たちの話を聞くのも、いいでしょう。
動物を可愛がるのも、いいでしょう。
捜せば、けっこうあるのものです。
一番いいのは、「人の話をたくさん聞く」ことです。